新卒採用の会社でいきなり、ネットに載せられていた過去の写真を理由に左遷扱いを受けたゲイでネコを自認する崎谷 樹。配属先の所属長、宮代 善爾は崎谷の好みそのもので、「待っていた」という言葉に心中密かに喜ぶがその裏には会社の理不尽故の事情があって――。
小賢しい、鼻につく、可愛げがない。
この辺に加えて「どうせ自分の顔が一番好きなんだろう」と謂れなき罵倒。時々暴力もセットになって俺のオツキアイはいつもろくな終わり方をしない。
そういうところが、と言われるのかもしれないが、別れが確定した瞬間相手のことはすべて忘れるようにしていた。冷たいと言うなら言え、惚れた腫れただけ考えて生きていられるならともかく現実は就活バイト実験レポートに時間を割いた残りに結局セックスだけが目的のレンアイをねじ込んでいた訳で、これで少し楽になる、とむしろ安堵した解放感だけ微かに覚えている。
「これ、このレインボー何とか? の参加者の写真、君だよね?
崎谷 樹君」
だから、考えてもみなかったのだ。終わったはずの関係が自分のあずかり知らないところで多大な迷惑に転じて降りかかってくる……なんてもらい事故のような事態は。
◇◇◇◇◇
「おはようございます。今日からこちらでお世話になります、崎谷です」
始業5分前を切った時点でフロアに居るのが数人。女性ばかりだったがじろりと眺め回された挙げ句の黙殺を食らい、これは何らか『申し送り』の結果だろうかと想像すると打たれ弱い今時の若者を早々に決め込みたくなる。
新卒一斉研修への参加も許されず即配属。ってことでよかったんだよな?
若気の至り、当時付き合っていた男に連れられて一度だけ参加した、LGBTの権利を主張し差別に抗議する趣旨のパレード。今なら恋人の人権すらガン無視だったDV男がちゃんちゃら可笑しい、と鼻で嗤い飛ばすところだが、少なからず依存のケがあった当時の俺は言われるままに集団の一員として練り歩き、気づかないところで写真に収まっていたらしい。
どういう検索をかけたのかは知らないが、そんなネットの海に漂うデブリを就職先に把握され新卒採用即左遷――曰く「セクハラで不満が出やすい女性ばかりの部署だもんで、君なら安心だからね」とのこと。
セクシャルハラスメントの意味から見直せ、やら、今まさにお前が俺に投げかけた言動がセクハラそのものだが、やら、言いたいことは多々あれど、またすぐに就活を再開する気力もないままキレ散らかすタイミングも逸し、俺の配属先は同期に先駆けていち早く決まり『お客様相談窓口コールセンター』と相成った。大学で学んだことを活かし開発を希望……随分とお花畑だったエントリーシートの文面を思い出すと笑えてくる。
「あぁ、ごめんね崎谷くん!」
慌てたようにかけられた声。俺の他には一人だけの正社員だ、と聞いていたフロア長の人だろうか?
振り向いた目の前が控えめなストライプで埋め尽くされる。
「初めまして、コールセンター長の宮代 善爾です」
好みドストライクが済まなそうな顔で立っていた。
「あ、あの、初めまして……?
今日からの、あの、崎谷 樹と申します」
「ほんとに申し訳ない、迎えに行ったらよかったですね」
ここ、すぐわかった? と長身をかがめて聞いてくる顔が、近い、気がするのに全く嫌じゃない。
可愛げのなさの一つの要因とも言われた俺の身長は176cm(もっと小さくて上目遣いではかなげに頼ってくるようなら考えてやった、という趣旨の理不尽なダメ出しを食らったことがある)、それに目線を合わせようとしてこんなになるって、この人一体何センチあるんだ?
「もちろん、ええと、全然大丈夫です!」
語彙力が爆散し顔に急速に熱が集まる。はわわあのそのええと、俺は全くそんな柄でもキャラでもないのに!
「ならよかった。一件、チャットで返しておいたほうがいいご相談が入っていて……
いや、ごめん、言い訳ですね」
「たかが新入社員にお時間割いて頂いたら申し訳ないです」
「たかが?
私は、崎谷くんが来てくれるのを本当に待ってたんですよ」
「え……?」
少し寂しそうに苦笑し宮代さんは「お昼は一緒に外に行きましょう、それまではパソコンのセットアップを」と俺を席に促した。
◇◇◇◇◇
「休憩にならなくてしんどいかもしれないけどごめんね」
社内だと話しづらいこともあったから、と、また少し悲しそうな顔で宮代さんは言う。
それはまあ――そうだろう。女性にセクハラの危険なしと判断し配属した根拠について所属長が聞いていない筈がない訳で、最悪俺はオトコと見るや鼻息荒く襲い掛かる色情狂扱いで伝えられているのかもしれない。
タイプドンズバの人にあまり嫌われたくはないけど、難しいだろうなあ……。
浮ついていた気持ちを抑え込み、せめてこれ以上印象を悪くしないように口角を上げてみせる。
「お気遣い頂き有難うございます。
僕も、可能なら釈明の機会を頂きたかったので有難いです」
「釈明? あぁ……うん、いや。
とりあえず何処か入ってからにしよう」
それなりに人出のあるオフィス街の昼時にしてはあっさりと腰を落ち着けることが出来た。
限られたメニューでランチ営業をしているらしい居酒屋は、なるほど憚りのある話には都合がいい個室完備。俺にとっては有難い環境だけど宮代さんは気にならないんだろうか?
ゲイだと知るや警戒を隠しもせず痴漢や強姦魔を見る目を向けてこられる――そんなシチュエーションをよく聞かされてきた。体格に恵まれた人は、変に恐れたりすることはないんだろうか。
「ここ、とにかく出てくるのが早いんです。
無理言ってるから……慌ただしくてごめんね」
この様子はもしかして、俺の『性癖』についてはお聞き及びでない?
それならそのほうがもちろん好都合だけど、と差し出されたメニューを受け取る。早い方がいいなら丼ものにしておこうか。
「これで歓迎というのもなんなんだけど、せめて好きなものを頼んでね。
会社から出るから」
「有難うございます。じゃあ海鮮丼で……」
「遠慮しないで、若いんだから肉のほうがいいでしょう」
「や、あの、魚好きなんで大丈夫です!」
俺の手元のメニューをのぞき込む動きで距離が詰められ、体感温度が上がった感覚。
クールビューティなんて陳腐な呼ばれ方もされてきたけど、そんな過去が猫かぶりひとつの役にも立たないほど動悸息切れ発汗赤面が止められない。
宮代さんに乗っかられたい……!
縦に高いだけじゃない、服の上からもわかる筋肉の厚みでのしかかられてつぶされて、窒息しそうに貪るキスで煽られてみたい。後ろから獣のように、きっと熱くて大きいだろう性器で穿たれたら――。
出会って数時間で淫らな妄想を展開するのも気が咎めるが、どのみち妄想止まりでしかないんだ。
どうあれしばらくは身を置くしかない職場の、ささやかで個人的な潤いとして使わせてもらいたい。せめてそれくらいの見返りがあってもいいだろう、と、いつのまにか注文が通り目の前に置かれた海鮮丼の艶やかな赤身に目をやった。
◇◇◇◇◇
「崎谷くん、本当に申し訳ないです。
私は会社の過ちを正せるような立場ではないけれど、
個人的には有り得ないひどいことだと思っています」
「そ……んな、やめてください!」
「可能な限り早急に配属変更と他の新卒採用同様の研修、教育を求めていくので、
少し辛抱してね」
わさびに悶絶していたら、唐突にガチトーンで頭をさげられてしまった。もしかして、不安や不満で涙ぐんでいる、みたいに解釈された?
もちろん納得なんかはしていないけど、宮代さんに対して何か思う訳ではない。むしろおかげで少しだけがんばれる気がしてきたところで――というのは、なかなか当たり障りない形で伝えるのは難しいけれど。
「あの、さっき僕が来るのを待ってくださってた、って……」
社交辞令や「どの面下げてのこのこ現れるのか見ものだ」というニュアンスかとも思ったけど、この感じだと素直に受け取ってもよさそうかな。宮代さんの顔をようやくまともに見ながら恐る恐る聞いてみる。
即戦力として期待されているなんてことはまずないだろう。それはわかっている。
まさかご同類という訳でもないだろうし、万が一、だとしても真っ昼間、勤務時間中にそういう意味の言葉をかけてくる人とも思えない。
猫の手でも借りたい、ぐらいのつもりなのかなあ、夜の話ならご希望通りのネコですけど。
くそつまらない自虐ネタをつい思い浮かべてしまいげんなりする。
「……崎谷くんについて、会社からアウティング……という形で
事前に知ってしまっているのだけれど」
「あー……はい。ですよね」
「加えて本当に失礼な質問になってしまって申し訳ないのだけれど」
「いや、もう今更です、
確認しておきたいことがあれば聞いてください」
「あの、女性が苦手……とか、怖い、みたいなことは……」
「それはないです。
恋愛で好きになるのが男性ってだけなので」
恋愛で、とはまた随分お上品な表現で、つまりは性欲を覚えるのは、という意味。
残念ながら俺は甘酸っぱかったりキュンキュンしたり、手をつなぐだけで四苦八苦するような恋愛とは無縁で来てしまったから、『好きになる』は即イコール『抱かれたい』だ。宮代さんにそこまで説明する気、度胸はない。
「……崎谷くん……」
「? は……えええええ!?」
「ごめんねぇぇぇ……
ほんとは早く解放してあげなくちゃいけないけど……
おれと一緒にいてぇぇぇ……」
箸を握っていた俺の手を大きな手で包んで捧げ持ち、抱かれたい男本年度ぶっちぎりNo.1に躍り出た直属の上司は滝の涙を流していた。
◇◇◇◇◇
「で?
別にあーしは誰がテッペンでも給料分仕事するだけだけど」
ゆるふわ、女子力、愛され――そんな形容を欲しいままにしそうなビジュアルからえらくすれっからしなご発言。俺の背中にすがる宮代さんはびくりと跳ね上がり「や、違うんです那須さん」とか細い声を発している。
「宮代クンさあ……」
「は、はいっ」
「いい加減そのビクビクブルブルすんのうぜーから新人立てるってのはまあいいわ」
「いい、ですか」
「最後まで聞いてくんねぇかな?
ソイツで、そうは言ってもここ回してきたアンタの代わり務まんのかよ」
すごむ那須さんは視線で俺を諸共になで斬りにしてくる。
剣呑さの裏にはおそらく宮代さんに対して一定程度の信頼があって、ぽっと出のひよっこたる俺が気に入らないんだろうな、というくらいは想像がつく口調だった。
「僕は……フィルターみたいなものだと思って頂ければ……」
「………フィルター」
「はぁ? なんだそれ」
あれ、そういう理解では間違ってただろうか。宮代さんも一緒になって怪訝な顔を見せている。
涙にくれる宮代さんの『お願い』、それは部署の女性とのやりとりの間に立ってほしいということだった。メンタルの都合で女性恐怖症のような状態に陥っているためその対策として、とのこと。原因と経緯については情報不足、聞き取り未完。昼休みの時間内に把握するには情報量が多すぎた。
「ええと、宮代さんの装備品みたいな……?
代りとかではなく」
「聞いてんじゃねぇよてめぇのことだろうが」
第一印象はなかなか最悪みたいだ。
ただ俺にとって幸いなのは、那須さんはあまり声を荒らげることはなく、どちらかというと低音のすごみで迫るタイプらしい。この先宮代さんの窓口になって会話していくのは、特段苦にはならないだろうという気がする。
「だいたいコイツ、男が好きってんなら女とかわんねぇだろうがよ、
宮代クン」
「ひぇっ、あっ、那須さん、
それは崎谷くんに対して失礼です」
この会社は人の性的指向をどれだけの範囲で公開してくれちゃってるというのか。どうせそんなことだろうとは思っていたがもはやへらへらと笑うことしかできない。
でも宮代さんが恐怖をおしてたしなめてくれたこと、そして那須さんが(わかりづらいけど)俺を信用せず警戒して、宮代さんを案じていることは嬉しい。
「ご心配でしょうけど、僕は当面ここで働くしかないので。
職を危うくするような真似はしません」
「……ハッ!
じゃあ根性見せてもらおうじゃねえか」
きっちり一人頭稼働して、その上でフィルターやるんなら何も文句ねえからよ。
ミュート状態だったら『あざとい』とでも言えそうな笑顔で那須さんは釘を刺し、話は終わったとばかりヘッドセットを装着した。
◇◇◇◇◇
昨今の若者、新入社員は電話を恐れる。そんな定説から新しい○○ハラも生まれている――なんてのは、俺に限って言えばあたらない話である。
そういう意味ではこの『お客様相談窓口コールセンター』配属もそれほどのダメージにはならず、もし会社が面倒な新人を自分から辞めていくように仕向けたつもりなら残念でした、というところ。
ここで通用するかはまだわからないが、割合バラエティに富んだバイトをこなしてきた都合電話の経験値だけは受ける方もかける方もそれなりだと思う。
「――って感じで、無理そうだったらヘルプを出してね」
「はい、わかりました」
「電話だったら、私も女性でも大丈夫ですから」
「ありがとうございます」
そういうものなのか……覚えておこう。
なんとなくの憶測でしかないけど、宮代さんの女性恐怖症は社内の人間関係きっかけなんじゃないかなという気がしている。更に俺と同じく『セクハラ絶対安全圏』として、恐らくは左遷のような形で実質女の園に放り込まれた――会社に対しては絶望が深まる一方だ。
好みだ、抱かれたいなどという俺のエゴは置いておいても、できるだけ宮代さんが楽になれるよう役に立ちたい。会社を共通仮想敵に設定して共に苦難を乗り切る仲間になれるように。これは結構アガるガソリンになり得るな、と少し準備の手も弾む。
ばしっ、と肩を叩かれる。見ると那須さんが口パクで「崎谷ァ、お前の」と促していた。マニュアルはいつでも確認できるように、録音の準備も完了。
初仕事を、こなしてみせられればいいんだけど。
「ハァ……ハァ……なんかしゃべってよ……
発射10秒前……9……8……」
で、いきなり初手からこういうのドローするか!?
この会話は、録音されてるんですけど!?
あからさまな喘ぎ声、何やらねちゃねちゃした音。製品について質問や相談、であろうはずもない。
「ご用件を、承ります。如何なさいましたか?」
「あ? なんだ、男か」
これはもうまともな会話は成立しなそうだな、と思うものの、ガチャ切りをこちらから出来る訳もなくマニュアル通りの挨拶を口にする。考えようによってはまわりの女性の皆さんがこの通話を回避できたことでまずひとつ役に立った、のかもしれない。
「男じゃしょうがねぇだろうがよ~……
いるんだろ、若いねえちゃん。
耳元でしゃべってもらわねえとイけねえよ~」
酔っ払っているのだろうか、妙に語尾がのびるだみ声に忙しない呼吸が混じる。
親しくなった男性との間でご要望があれば音声を介した性的な遊びもやぶさかではないが、それはあくまで双方同意の上でのこと。ましてこんなTPOも弁えない一方的なやり方は気持ち悪いばかりだ。
「僕でご用向きが足りなければわかる者に代わりますので。
まずご用件をお聞かせください」
少し苛立った口調になってしまっただろうか。懸念がよぎった瞬間、ヘッドセットをかけた左耳に大音量が響いた。たぶん、何かを蹴倒した、投げつけた破壊音――今はまだ、物に対しての。
「うるっせぇ、ごちゃごちゃ言ってんじゃねえ!
女出せってんだよ!!」
怒鳴りながら、回線越しに次々に何か壊れているような音が響いている。
これは、直接俺を痛めつける音じゃない。上手くさばいて、早く終わらせなきゃ。
「……っ、女性でなければならないご用件と判断しましたら、
お電話を引継ぎますので」
「判断だァ?
てめえ何様だコラァ!!」
違う、俺が何かしてしまったからじゃない。この怒鳴り声は、俺を責めてるんじゃない。
――この後の、殴る蹴るに耐えなきゃ、逃げたら余計に痛めつけられて――
「崎谷くん」
大きな手をそっと重ねて、背中に柔らかな体温。右耳に名前を呼ぶ小声を吹き込まれる。
「おれが代わる、ごめんね、大丈夫?」
二、三の操作をして自席に戻り、通話を開始した宮代さんの背中を呆然と眺めながら固く握っていた拳を開く。そんなに長い時間ではなかったはずなのに、くっきりと赤く食い込んだ爪の跡が残る手のひらはまだ震えていた。
◇◇◇◇◇
「長い一日だった……」
トイレの鏡に映った自分の顔が少し縮んでいるように見える。
本来だったら今日なんかは入社式からの社内見学、歓迎会――およそ仕事らしい仕事はせず、同期とこの先深まるかわからない親交のとっかかりをつけたりして――。
あまり面白くはなさそうだ、と思ってしまう時点で、経緯や起こったアクシデントはどうあれ、俺にはこの一日みたいな社会人生活始動のほうが合っていたのかもしれない。
那須さんはじめ派遣社員のみなさんは鉄壁の時間厳守だそうで既に退勤している。朝の黙殺から一転、初手からのモンスタークレーマー遭遇に同情してくれたものか帰っていくときにはひと声かけてくれた。
直接雇用である宮代さんと俺で記録や報告、こまごまとした用事を済ませ部屋に施錠して退勤、で今ぐらいの20時前後。だいたいこのペースだとしたら、体力的に辛いというほどのことはないだろう。
「どう……するかなぁ……」
トイレ入り口に一瞬置かせてもらった、シュレッダーにかけた断裁紙ごみ二袋を回収しながらつぶやく。
会社に対しての期待値はもはやマイナスだが、人間関係についてはもしかしたら望むべくもない当たりをひけたのかも、と思ってしまう。
宮代さんを、好きになってしまった。たぶんタイプだとかそういうノリでは済まない深さで。
ノンケで、しかもメンタル状況がそれどころでない人に不毛なことだとわかっている。辛い環境に異分子が入って来た、未知数に期待しているだけだってこともわかっている。
それでも、少しでも役に立ちたい。今日みたいにかばってもらったことを喜んでいるのではダメだ。
この環境で、宮代さんの支えになるべく努力する――どうせ稼いで食っていかなければならないなら、エントリーシートを埋めるためにでっちあげた『やりがい』より現実的で、熱量のある目標じゃないだろうか。
「おや……初日はどうだったかな、崎谷君」
「……お疲れ様です」
早く済ませて施錠を待ってくれてる宮代さんのところへ戻っておくんだった。舌打ちしたくなる気持ちを抑えて会釈をする。
人事部はこのフロアだったのか、喫煙所からろくでもない見覚えのにやついた顔が馴れ馴れしく突き出していた。
「早速遅くまで頑張ってくれたみたいだね。
私の配属も悪くなかったってことかな?」
「まだ初日ですので。気を抜かず頑張ります」
「ハハハ優等生だ。宮代は君の好みだったか?」
こんな下種の勘繰りに図星をつかれて、顔色を変えそうになるなんて。
とっさに下を向き、手に持ったごみを引っ張り上げるようなふりをする。耳が赤くなっていないことを祈るばかりだ。
「宮代もなあ、女で勃たないなら男を試してみてもいいかもしれんな、
君はどうなの?」
「……今はまだ、とてもそのような余裕はありません」
あまりの言いざまにどう答えるのが正解なのかもわからないが、「たたない」は状況から考えて「勃たない」だろうな……。
プライバシーの極みのような、そんなことまで会社に把握され言いふらされている宮代さんに、絶対に俺の気持ちを知られる訳にはいかないなと改めて思い直す。この上更に余計な負担をかけるような事態は避けなければ。
「失礼します、
ごみを捨ててから施錠、退勤しないといけないので」
「なんだ、まだいいだろう。
何なら飲みに連れていってもいい」
歓迎会がわりに、宮代について詳しく教えてあげてもいいんだよ?
ねばつく視線で、声で、何故そんなことを俺に言うのか意味がわからないが、あまり宮代さんと結託されても困る、などと考えているんだろうか。何にせよお断りには違いない。感情の揺れを見せず反抗的な印象を与えないような言い回しをひねり出そうとしていたら、ふと片方の手から重さが消えた。
「人事部長、
私について崎谷くんに伝えておきたいことは自分で伝えますので」
「宮代……まあ、せいぜい仲良くやることだな」
「ご心配頂き有難うございます。
崎谷くん、もう施錠したいから荷物を持って出てくれる?」
ゴミ袋をひとつ引き受け、背中にそっと手を触れて、宮代さんは俺を促す。
また、助けられてしまった。
不甲斐ないのに、身体は現金にも心拍数を上げ喜んでしまっている。
◇◇◇◇◇
「っあ~……
なんかもう、昼も夜もおれと一緒でごめんねぇ……」
「いや、あの、嬉しいんですけど大丈夫ですか……?」
嬉しいとか、言わない方がいいんだろうけど。
こんなにべろんべろんならまあいいか――考えることを放棄するくらいに目の前の宮代さんは酔っ払っている。
慌ただしく退勤処理をし、社外を出たところでひどく深刻な顔をした宮代さんに夕飯を誘われたのだ。
「他人の噂話で伝わるよりはおれから説明したいと思うけど……
無理にとは」
「聞かせてほしいです!」
食い気味に答えた俺に目を瞠った後、宮代さんはまた少し悲しそうに「じゃあ本当に一応になっちゃうけど、歓迎会だね」と笑い、昼休みと同じ居酒屋に落ち着いたのが30分ほど前。
その時点、最初から酒が入る前提ではなかったかもしれないが、内容を思うと酒でも入らないと、というのも無理のない話ではあった。
「人事部長はおれのこと、何処までしゃべってたかな」
「ええ……と、その……」
「ああ、ごめん、言いづらいよね。
……崎谷くんは、お酒はどう?」
どう、と言うのは、どう答えるところなんだろうか。
何か飲んだら? とすすめてくれているのか、アルコール耐性の程を聞かれているのか、ド平日の明日は入社2日目という夜だと思えば何にせよそれほど過ごす訳にもいかない。
「好き……ですけど、まあ明日もあるのでウーロン茶で……」
「そっかぁ、
おれはね、ちょっと飲ませてもらっちゃいます」
店に入ってから、宮代さんの口調が少しゆるくてかわいい。
多大なるストレスの挙句ってことだろうからあまり浮かれるのも申し訳ないんだけど、一人称が「おれ」になっているのも、語尾にやわらかく「ね」と付くのもどきどきしてしまう。
俺には、既にある程度気を許してくれていると思っていいんだろうか。
「お待たせしました、カルーアミルクとウーロン茶です」
「あ、カルーアミルクおれです」
恥ずかしいけど、ビール苦手でね。
言いながら照れ笑い、軽くグラスを合わせてくる宮代さんは一体俺をどうしたいのか。勿論何の気なしの軽い親しみでしかないことはわかっている。弁えている。だけど既によこしまな眼を向けてしまっている俺には過ぎたるご褒美、思わずウーロン茶を飲み干してしまった。
「はあ……ええと、それじゃね、
なんでおれが女性と話すのも無理になっちゃったのか、から話そうか」
カルーアミルクで喉を湿してちらりと唇を舐める。キスで普段は絶対に頼まないような甘い酒の味を共有出来たら――妄想に沈みそうになる意識を強いて留める。
「あの、辛いようならいいですよ……
事情がどうあれお役に立てれば」
「いやー……崎谷くんには聞いてほしい……んだと思うんだ」
たぶん、同情して、かわいそうだって思われたい。
新卒のペーペーの、出会ってから24時間経っていない年下の男に対してこうまで率直なのは、それほど弱っているからなのか俺の気持ちを見透かしているからなのか。当然前者だろうことは想像に難くない。
ない、が……隣に移動して抱きついて、俺の胸で思い切り愚痴と弱音を吐いてもらって一向に構わない、というかそっちでお願いできれば有難い訳だが高望みはせず神妙な顔で頷きのみを返しておく。
「同僚だった、好きだって、結婚したいって言ってくれた女が
我が社の御曹司とオメデタ婚してね」
「え……っ、と?
乗り換えられてショックだった、んですか?」
「んん、乗り換えだったらまだよかったんだけど……
産休のタイミングからすると並行期間がそこそこあって」
「へいこう、きかん」
「おれは、ちゃんと結婚する前にしたがるなんて不誠実だって言われてた」
宮代さん、したがるんだあ……。
大変、本当に申し訳ないことながら、その部分に注意が集中してしまう。どうせ絶対に自分には向かない好みの男性の性欲状況を妄想の糧にするくらい許されたい。元カノの二股女はとんでもなくもったいないことをしたものだ。要らないなら俺にくれればいいのに。
「身体が大きいから怖いって……
背が高くてかっこいい、って最初は言ってくれてたんだけどなぁ……」
「背が高くてかっこいいですよ!!!」
同情とかかわいそうとかなんかじゃなく、魂の叫びとして伝えたい。俺なら、宮代さんが欲を向けてくれるならどんなに雑に扱われても喜んでしまうだろう。そもそも身体が大きいところがまずタイプだったのだ。
だけど相手を尊重すればこそ拒まれたらそれ以上押せなかったんだろうなということも、今日一日一緒に過ごしただけでも推測できる。
「失礼しまーす、焼うどんとほっけ、唐揚げでーす」
「あ、スクリュードライバーピッチャーでお願いします。
崎谷くんは?」
「俺は、ウーロン茶で」
一人で飲むのにピッチャーで頼む人を初めて見た。店員さんも若干引きぎみで「グラスお持ちしておきましょうか?」と聞いてくれる。
この様子だと、俺は素面をキープしたほうがよさそうだ、と「大丈夫です」と答え、宮代さんに向き直る。
「宮代さん、とりあえずご飯入れましょう。
すきっ腹に飲んだら悪酔いしちゃいます」
「崎谷くんは、やさしいねぇ……」
やさしくしていたら、好きになってくれればいいのに。
好きになって、手を出してくれたらいいのに。
女だというだけでこの人に求められて、こんなに深く傷つけて捨てていく――俺なら、捨てられる側にしかなり得ないのに。
「それでね、未来の社長夫人の元カレをどう扱ったものか、
になったんだろうねぇ……コールセンターに異動になってですね」
「もう弊社だからいいか、マジクソですね会社」
「それな。って崎谷くんぐらいの若い人は言うんだよね」
「俺はあんまり言わないです」
「あはは、そっか~……」
宮代さんの手元のグラスは空いていて、本当はもう少し食べてからにしてほしいけど次を注ぐ。
「そうしたら、でかくてキモイみたいなことを女性社員から言われるようになって」
「異動前はそんなことなかったんですか?」
「自分で言うのも何だけどおれ割とモテてたと思うんだ、
彼女いてもいいから付き合って、とか言われたりもあった」
でも、モテてたのはデキる風の、会社での出世レースの位置でしかなかったんだよね。
うつむいて、ほっけをつつき回しながら語るその声音は湿っている、ような気がする。先を促して話を聞くのがいいのかどうか迷うところだけど、少なくともほっけの骨は俺がとっておいた方がいいか。取り分けたものの手を付けていなかった唐揚げと交換し手振りですすめてみる。
「確かに、女性が怖くなっても仕方ないかもですね」
「女性、全体に広げて認識しちゃうのはほんとにダメなことだとわかってる、んだけど……」
「精神的な、自分ではどうしようもないところじゃないですか」
「産業医の先生もそう言ってくれたんだ。
でもおれが勃たなくなったかも、って相談したの会社に報告してて」
「はぁ!?
え、産業医ってそういうものですか?」
「よそは知らないけどうちではそうだったみたいだね。
で、まあ会社中がおれの下半身事情を把握してる事態ってのがダメ押しで、
うちの部署のみなさんには本当に申し訳ないんだけど女性全般に怯えることになっちゃった」
「ちなみに、もしかして産業医の先生も……」
「女性です。
社長夫人予定のあの女とは仲が良かったみたい」
胸糞悪すぎる話にもはやどんな顔をしたらいいのかわからない。
俺なんかが、こんな目に遭って辛いこの人に何か役に立てるんだろうか。
アルコールは一滴も口にしていないのに、俺の口は勝手に回っていた。
「人事部長とおんなじこと言うの嫌ですけど、
男を試してみる、ってのはどうですか」
「……え?」
ほぼ空のグラスを取り上げ、遠ざける。爪から浮き出た骨を辿り、手首まで撫で上げて指を回して持ち上げて、宮代さんの手越し、過去受けがよかった実感がある笑い方を思い出しなぞる。
明確に、誘うつもりの目を向けた。俺を、都合よく使ってくれたらいいのに。祈るような気持ちで、物慣れた風を装って目を合わせたまま指先にキスをする。
「俺は、男が何処をどうされたらイイのか結構詳しいですけど」
「え、ええ? 試す、って、崎谷くん、と?」
「女性より頑丈だし、多少の痛いことには慣れてます。
後腐れもないですよ?」
何かを期待したり、要求したりしない。
「だめだよ、そんなこと」
だめ、か……まあそうだろう。あとは上手く冗談だった、という体で、時に際どい話題も織り交ぜながら気安く話せる相手になるルートに入れればいいけれど、もう気持ち悪がられてしまうだろうか。
「おれが同情されたいなんて言ったから?」
大きな両手で、反対に手を包み返される。酔いの残る顔色の中、水気のある目玉はしっかりと俺を見ている。怒りに触れてしまったのだろうか。不遜な身の程知らずと思われただろうか。目を逸らして謝ろう、そう思うのに囚われたように見つめた視線を動かすことが出来ない。
「男、全体じゃなくて――
君の好きな人、君のことが好きな人とすることでしょう」
ね? と説得するように、首をかしげてやんわりと窘められる。その顔に、声に、こんなに顔が熱くなるのが好きという気持ちじゃなきゃ何なんだ。
「俺はもう、あなたのことが好きなんだ」
「崎谷くん……」
「あなたが俺を好きじゃなくてもいいんです。
こんな話をきかせてくれるくらいには信用があるなら、
俺の身体も、なんだって使ってもらえるほうが嬉しい」
「そんな、おれだって崎谷くんのこと好きだよ!
か、身体がどうのってのは……持ち帰って検討だけど」
「えっ、検討の余地アリなんですか!? 気持ち悪いとかは!?」
「気持ち悪い……と感じるほど具体的に想像できない、かな……
崎谷くんにエロ要素ってのがまだ……」
「そんなこと言われたの初めてですよ!」
一体宮代さんには俺がどんなふうに見えているんだろう。
でもまあどうあれ、好きだと思ってくれているのは嬉しい。そういう意味じゃないとわかっていてもやっぱり嬉しい。
「宮代さん、エロいことしたくなったら言ってくださいね。
俺がんばりますよ」
「う、う~ん……?
ありがとう、って言えばいいのか……?」
戸惑いながら干したグラスに間髪を入れず注ぎ足して、改めて乾杯の動作。
ネコの手よりももう少し役に立つ、あなたを裏切らない忠犬になりたい。
そんな気持ちを込めて出来る限りきれいに微笑んだつもりの顔を向けると、宮代さんは少しむせ、赤みが上乗せになった顔で「……今後ともよろしく」とつぶやいた。