09.宮代善爾の救援

※登場人物による同性愛に対する差別的な見解や発言、パワハラ、PTSDを不用意に刺激する発言、描写が含まれます※

「心配だけど、時間に行かないとまた
 文句言ってくるだろうから……」
「大丈夫ですよ、宮代さんがついててくれるんですから」

 嫌な事言われたら、週末愚痴を聞いてくださいね。

 笑って言う崎谷くんが、次いで会社では珍しく言い淀み、間を置いてから上目遣いに囁く。

「あの、出来れば、でいいんですけど、
 握手みたいなのしてもらっていいですか」

 握手みたいなの、とは。不思議に思ってじっと見ているとじわじわと顔が赤くなっていくのがかわいい。握手……健闘を祈る、が欲しいんだろうか。

「……会社だから、手で、ぎゅっとしてほしくて……」
「あ、ああ! うん!! もちろん!!」

 察しが悪くて申し訳ない。両手でほっそりとした手を包んでぎゅっとする。所謂ハグ、であれば会社であっても許されないだろうか。スポーツ選手や華やかな職業、普通の会社でも外資系だったりすれば――視線が噛み合って、たぶんおれも赤くなって、断念する。ハグで収められそうにない。

「じゃあ、行ってきます。後は決めた通りに」
「うん、待ってる」

 名残惜しい気持ちで手を離そうとしたところに綺麗に光る爪の手が乗る。珍しくわかりやすい表情、感情が現れた顔をしている那須さんだった。
 
「……気をつけてな。
 いや、何に気を付けたらいいのかわかんねぇけど……」
「ありがとうございます。
 宮代さんの手を止めてしまって済みません」
「や、それはどうせ使い物になんねぇから。な?」
「仰るとおりでございます……」
「お前が早く戻って来て、その分働きゃいいんだよ」

 ばしっ、と一発気合を注入する肩への平手でよろめいた崎谷くんは、それでも健気に「なるはやで帰ってきます!」と部屋を出て行った。配属先に不満がないか、という聞き取り面接のはずが、部署から出発するのにまるで戦地に赴くが如きお見送りである。

崎谷あいつ、自分がツイてねぇ、とか思わねぇのかな」

 ぽつりと那須さんが呟く。本当に、おれもそう思う。おれとのことで幸せだ、なんて言ってくれる崎谷くんは、自分を軽んじて求めることをあまりしない、慣れていないように感じる。もっと不幸を嘆いて、不満を訴えて、正当な権利を主張していいのに。おれにだって、もっとわがままを言ってくれたらいいのに。そう思う。

「……アンタがいるからいいのかもしれねぇけど」
「……え……?」
「おら、こっから先アンタの仕事は待ちだけだろ!
 席で大人しくしてろ!」
「はいっ!」

 鬼軍曹に少しは認めてもらえた、のだろうか。両手で顔を勢いよく挟み、自分で自分に気合を入れる。

◇◇◇◇◇

 崎谷くんの面談にあたってあれこれ策を講じてはみたものの、会社と喧嘩したい訳じゃない、という崎谷くんの意向を尊重するとあまり攻めた手は使えない。結局は面談の相手がまずい状態だったら『面談中おれと通話状態に』し、おれの側で通話録音をする……という確実とは言い難い手段で対抗することになった。専用の録音、撮影機材などを持って入り、もしそれが見つかった場合何を言われるか知れたものではない、そう考えたからである。
 今がここで働いてきた中で一番まし、楽な状態だと部署一丸、口を揃えて言ってくれ、協力を惜しまないとしておれは崎谷くんの面談が終わるまで仕事の電話はとらないでいいことにしてもらっている。もちろん崎谷くんが電話なしで早く戻って来て、おれも心穏やかに二人そろって働けるのがベストなのだが、わざわざ一度おれを呼び出して面談の予定を伝えてくるなんて回りくどい手を使ってきた時点で既にきな臭い。

(かかってきた……!)

 かかって、来てしまった。すぐに立ち上がり、手を挙げて崎谷くんからの着信を周知、録音を始める。音はなんとか聞き取れる程度、崎谷くんの「失礼します」という声はよく聞こえる。

「やあ崎谷くん! 元気そうじゃないか」

 人事部長の大きなだみ声はこんなイレギュラーな電話の使い方をしていても無駄によく聞き取れる。どういう了見でいれば自分が差別と偏見で不当な配属をした新卒入社の若者に、久しぶりに会った親戚のおじさんのような声をかけられるって言うんだ。理解できない不愉快さが顔に出ていたようで、那須さんが席で自分の眉間をつつきながら片頬を上げる。ニヒル、とでも言いたいその笑みに頭を冷やし、音声に集中する。

「さて、君はちょっと特殊なケースなんでね。
 人数を増やして丁寧に面談しようと思って」

 圧迫面談、などという言葉があるのかは知らないが崎谷くんが電話をくれた理由はよくわかった。おれのときは……もうよく覚えてはいないが本当に形ばかり、面談しながらアンケートのような紙を埋めて提出、ぐらいのものじゃなかったっけな……。

「産業医の東山先生にも同席願ったよ」
「はぁ!?」

 思わず声を出してしまい、あわてて口を押さえた。周辺の皆さんに片手拝みで謝ってより強く耳にスマホを押しあてる。

 なんで、あのひとが。

 健康診断で引っかかったところ、何か深刻な不調があったんだろうか。結果は部署ごとにまとめて来るはずで、おれがまだ受けにも行っていない以上当然届いていない。待てないほど急を要するならたまたま居合わせた東山先生に同席を――いや、やっぱりどう考えてもおかしい。

「僕の方からは特に聞いて頂きたいこともないのですが?」
「君が今の部署に配属された経緯を、
 今後一切口外しないと同時に訴訟などを起こさない、
 という誓約書にサインをしてほしいんだ」
「現時点までにそうした行動をとっていないということで、
 ご不安は払しょくされませんか?」
「君がなんでもないただの新卒採用だったら、
 こんなに手をかけることもないんだがね。
 君の属性……というのかな。
 我が社にとって都合が悪いことが多いんだよ」

 揉め事にする気はない、と言っていた崎谷くんの先見の明、おれの不明を恥じる。差別やコンプライアンス軽視に無頓着な我が社でもこのくらいの懸念は持って圧をかけてくる訳か。でも、じゃあ、会社にとって都合が悪い属性、とは何だろう。多いって言い方は、性的思向を差別する以外にまだ何かあるって?

「ご両親に既往症、
 糖尿病が、を確認したかったので」

 ご両親に、――?

「――それから……震災遺児への支援不足とか、ね」

 名前で呼ばれたくない、と。おれにも、いや、おれにさえもそれしか言えなかったのか。喪失を一人で抱えて、わがままも上手く言えないで、他人ひとに与えて優しくしてくれるばかりで、崎谷くんは。

「……っ、は、っ、は、ぁ、はぁっ……」

 これは崎谷くんの呼吸音か。あんな人事部長やつのいたぶる為だけの言葉で追い詰められて、苦しい思いをしている。おれは、ここで座り込んで盗み聞きしているだけなのか?

 助けにいこう。

 お節介でも余計なお世話でも、一人で先走って暴走しているだけだとしても、あの場に崎谷くんをひとり置いておけない。見ることは出来なくても電話の向こうにおれがいる、そう伝わればいい、とスタンプひとつ。内線番号の一覧表に目を流す。

「お疲れ様です、コールセンターの宮代です。
 お客様からのご相談で崎谷でないと難しいものが、
 ええ、はい、いや、困ります。
 ――私が代わりに承りましょうか」

 一方的に内線を切って駆けだした。デスクの間を抜けるたび、通話をしている人もしていない人も軽く小突いて笑ってくれる。勝手に、一方的に恐れを抱いていたようなおれを励ましてくれる。那須さんの横に至り、痛烈な大振りの平手を背中に一つ。口の動きだけで「行ってこい!」、大きく頷き返して部屋を飛び出した。

◇◇◇◇◇

「おや、東山先生、お久しぶりです。
 お客様を待たせてますので、
 崎谷は帰してよろしいですか?」
「……お久しぶり、宮代さん。
 私を見てもずいぶん安定していて……
 それは、この崎谷さんのおかげってことかしら?」

 会議室に乱入すると、崎谷くんが勢いよく立ち上がり数歩の距離も急かれる様子で駆け寄ってくる。それだけで、おれはまた馬鹿なことをしたんじゃないか、恐れる気持ちは消え去った。
 出来ることなら、面談前にできなかった『ぎゅっと』を今すぐしたい。出来る訳もないことはわかっているが、見上げる崎谷くんと視線が絡むと同じ気持ちが二人の間で行き交っている、そう思える。

「僕には特に申し上げることはない、
 最初からそう言ってます。
 お願い……誓約書にサインの件は、
 上長みやしろさんに報告、確認の上後日対応ということで」
「誓約書?
 やっと本採用になったばかりの者に、
 直属の長を通さず一体何を書かせようと?」

 少し嘘くさいか。おれはあまりこうした腹芸が出来るほうじゃないから、すごんで見せたつもりだけど上手くいっているかどうかはわからない。

「……二人とも、今日は戻っていい」
「誓約書は、では今ここでサインをしてお渡しして、
 じゃなくてもいいってことですか?
 ちゃんと熟読して、変更をお願いしたい箇所があれば
 洗い出して、双方納得の上で……」
「うるさい、早く戻れ!」

 逆ギレの怒鳴り声をぶつけてくる人事部長は滑稽だが、崎谷くんは大丈夫だろうか。そっと横を窺うと、更なる追撃も辞さないような少しサディスティックな色味のある笑顔。呼吸が乱れるほど追い詰められていた状態からは完全に脱している、んだろうか。

「では、失礼します。
 誓約書は私も目を通しますので」

 二人そろって頭を下げ、退室する。ドアを閉めるや抱きしめたい衝動をどうにか抑えて、とにかく上司と部下の範疇で肩に手を回し可及的速やかに会議室から遠ざかる。

「崎谷くん、その、大丈夫……
 じゃない、かもしれないけど……」
「宮代さん、お客様を待たせてるって言うのは」
「ごめん、そういう設定で来ちゃっただけなんだ」
「じゃあ……あの、ほんとに申し訳ないですけど……」

 一瞬、時間をください。

 トイレの前で、目を潤ませて袖を引く修羅場を抜けてきたばかりの恋人の『お願い』を、やり過ごせる精神力があればそもそも後先考えず駆けつけたりしていない。

◇◇◇◇◇

「ん、む……は、あ、んっ、んんんっ」

 トイレの個室に二人駆け込んで、鍵をかけるやいなや飛びついて来た崎谷くんを抱きしめてキスを交わす。舌が行き交う激しいキスなのに何処か必死な、縋りつくような様子に胸が絞られる。おれは、少しは力になれただろうか。埋めようもない孤独に影響を与えられるとは思えないが、せめて支えにはなっていたい。

「……知られちゃいましたね」
「ん……君の、ご両親のこと?」

 話すのが辛いなら、無理には聞かない。そのつもりで吸い付くだけのキスを挟む。ちゅ、ちゅっと軽い音で繰り返す戯れで澱む熱を散らさなければ、とても戻れそうにない。

「宮代さんには、出来れば知られたくなかった。
 『かわいそうな崎谷くん』になりたくなかった。
 ……恋じゃなくなった時に、心残りにならないように」

 でも知られてしまったら、もう聞き分けのいいことなんか言えない。

 表情を変えずにぼろぼろと涙をこぼす崎谷くんに、おれなんかが何を言えるだろう。先のことなんかわからない。おれじゃなく、崎谷くんが恋の息の根を止めるかもしれない。それでも、今目の前で泣く崎谷くんが求めていて、おれが求められたくて、それだけじゃダメだろうか。俯く崎谷くんの顎をすくい、涙を吸い取って、また唇を重ねる。これ以上は興奮に火がついて身体に反応が表れてしまうぎりぎりまで、聞き分ける必要なんてないってことを伝えたかった。

「あ、んっ……もう、戻らないと、ですよね……」
「……そうだね……」

 あんなに励まして送り出してくれた皆さんにも不実極まりない、不埒な接触をもう切り上げないとまずい。理性では当然分かっている。下肢の兆しも、今ならまだ何食わぬ顔で徐々に落ち着けることが出来る。

 分かっているのに、離れがたい。

「……わがままを、聞いてくれますか。
 無理だったら無理って言ってくれていいんで」
「君は、もっとわがままを言って、おれを尻に敷いて、
 鼻面引き回すくらいでいいんだよ」
「っ、ふ、はっ! 宮代さん、そんな、ドMの人みたいな」
「……いいんだよ。ドMなおれにはなんだってご褒美だから、
わがままを言ってほしいよ」

 言いながらそっと腕を回し抱き寄せる。目をそらさないと、今度はおれのほうが泣いてしまいそうだった。

「……平日、ですけど。
 今夜、泊まりに行ってもいいですか」
「今夜、とま……っ、ぅえぇっ!?」
「抱いて、ください。
 俺のナカ、宮代さんでいっぱいにしてほしい」

 なんてタイミングで、なんてことを言うんだ……。戻って、顛末を報告して、何事もなかったように仕事をし、なきゃならないってのに、頭の中が夜への期待でもう使い物にならなくなってしまう。
 でもこれが、今までけしておれの機能不全を笑ったり、急かしたり、失望したりしないでいてくれた崎谷くんがやっと口にしたわがままだというなら。おれは「身一つで、来てくれればいいようにしてあるから」と歓迎の意を表するだけだ。

 面談の善後策を講じる、なんて、嘘ではないが本当でもないことを言って、那須さんの平手を背中に数発もらって。今更多少申し訳なさが追加されたところでもはや変わりはしない、と割り切って、今日は定時でお客様相談窓口コールセンターを閉めてしまおう。