※登場人物による同性愛に対する差別的な見解や発言、パワハラ、PTSDを不用意に刺激する発言、描写が含まれます※
腹が、減ったな。
このところ三食真面目に食べていたせいで余計にそう思うんだろう。採血されるところを目の当たりに、腕には未だ止血のガーゼが貼られていることもあっていつになく身体が補給を求めている気がする。
とはいえ、早く会社行きたいよな……。
健康診断は所定の病院で実施されるもののうち、いくつかの候補日が我が社に割り当てられていた。つまり今、健康診断が終わるやいなやこの周辺で食事を摂ろうとするとどこの部署のどういう人とカチるか知れたものではない訳で、早くホームグラウンドに帰りたい、というのが切実な本音だった。申し訳ない報告になってしまうが、宮代さんに早く会いたいのも大きい。
結局体重はあまり増やせなかった。1kgは増えたが2kgには届かずというぐらい、BMIを標準にすることは出来なかった。
しかし健康診断対策で食生活を整えてもらったり、性生活を充実させてもらっていることで安眠が得られたり、きっと血液検査の数値は改善しているだろう。ひっかかるのが体重だけなら、宮代さんが危惧していた産業医との面談も免れることが出来るかもしれない。
「よし、帰ろう」
懸案事項が終わったからといって雑な食事に戻すのもどうか、だけど、ゼリーかブロックを席で食べることにして早く仕事に戻ろう。会社に忠誠心などビタイチ持っていないのにすっかり仕事中毒、社畜のようだと思うと少し可笑しい。
◇◇◇◇◇
「遅くなりました、戻りました」
通話している人に障らないよう小声で挨拶しながら席に着く。宮代さんの席が空いているのは昼休みだろうか。座るなり隣からつつかれて、那須さんがご相談をさばきながらメモ書きを見せてくれる。
宮代クン戻ってきたら一緒に昼行ってきていいから。
戻ってきたら、ってことは昼休みやちょっと席を外している、んじゃないのか。メモの文字を見て、那須さんに目を戻すと珍しく感情がそのまま現れた表情を浮かべている。二人で抜けてもいいなんて言ってくれるのも常にないことで、宮代さんがいないのは何かそんなにまずいのか?
「わかりました、ありがとうございます」
ほぼ口の動きのみのような返事で、さて手にした食料をどうしたものか、とりあえず引き出しにしまおうとごそごそしているとまたつつかれて「今後もちゃんと食え」のメモ書き。那須さんも随分心配してくれたのに、あとで残念ながらの報告をしなければいけないのは心苦しい。
ともあれ出られるようになるまでは午前中いなかった分働いておかないとな。準備を済ませ着信を受けると、横から「ばかまじめ」とメモでツッコまれた。
◇◇◇◇◇
「面談、ですか?」
俺はかつ丼、宮代さんは親子丼を選んで、やっと遅い昼食にありつけそう、というところである。適当に済ませようとしていたのを忘れたかのように改めて空腹を覚えた俺の珍しいガッツリ系チョイスに宮代さんは嬉しそうにしていた。しかし宮代さんのほうは優しめのものが食べたい、というチョイス。心なしか顔色も悪いような気がするし、那須さんの様子も相まって早く話を聞きたいところに開口一番「面談があるって言われてね」だった。
「え、今日のがその面談だった、訳ではなく?」
「あ、ああ、おれじゃなくて崎谷くんのだよ。
そろそろ試用期間も終わるでしょう。
人事部の人が忌憚なき話を聞き取ってくれる、
恒例の通過儀礼でね」
「あ~……部署や所属長に不満を抱えていないか、とか
形式的に聞いてくれるやつですね」
「そうです。
過保護だろうけど、君をひとりで行かせたくない」
でも、何かおれに言えない不満があるなら、それは人事に伝える権利がある訳だし……言いながら親子丼をつつく宮代さんは、もう少し恋人を信用してくれてもいいんじゃないだろうか。箸を置き、じっと見つめて口を開く。
「善爾さんに言えなくて人事に言う不満なんて、
ある訳ないじゃないですか」
名前で呼ぶのに慣れた、とは言えない。週末ごとに家にお邪魔して、真哉くんが帰った後に……となると、悦すぎて蕩けたような状態で口にしているのがほとんど、日の高いうちに正気で呼ぶのは少し勇気が要る。
だけど、すぐに伝わるわかりやすい手段としてはきっと有効なんじゃないかと思ったのだ。面談で嫌な思いをしても週末『善爾さん』に聞いてもらえれば大丈夫、その意味も込めて名前を口にする。
「……ほんとに?
今日那須さんにも不用心すぎるって言われてね。
崎谷くんの立場も考えろって……
会社で丸わかりなほどデレデレするなって」
「それは、宮代さんだけが悪いんじゃないのでは」
かつてないほど今周りの人たちには優しくしてもらっている俺も、油断しきってゆるゆるだだ漏れなことだろう。本当に不満があるとしたら配属の経緯だけ、たぶん今、俺は幸せだ。
呪いのようだと思っていた「ご両親の分まで幸せに」という言葉に揺れることもない。
「面談は、一応その、
お付き合いがばれないようには気を付けたい
と思います」
「う、うん、そうだね」
「大丈夫ですよ、宮代さんが目の前にいなければ
そんなにゆるんじゃうこともないだろうし」
「え、ええ、そうなの?」
「もちろん、そうですよ」
俺がこんなになっちゃうのは、宮代さんの前だけです。
かつ丼を食べながら言う科白でもないが、正直な気持ちだ。宮代さんは目を瞠り、箸を止め、赤面を強める。
気持ち悪がられているかも、迷惑だろうか、踏み込み過ぎじゃないか。色々考えてしまう、しまっていたことを『考え過ぎ』と思えるようになってきたのは、宮代さんがこうして「丸わかりなほどデレデレ」してくれるからだ。
「あ、そうだ。
ごめんなさい、健康診断はやっぱりBMIアウトでした」
「ああ、だよねぇ。そんな、謝ることないよ。
こうなると産業医の先生より面談のほうが重い感じだけど」
「でも採血で具合悪くもならなかったし、
ちゃんと腹も減ってきっと他は健康だと思うんで」
「採血で具合悪くなったことあるんだね……。
来年に向けて、うちに来たときは引き続き食トレです」
何気なく、先の話ができるのが嬉しい。思わず笑いかけることになり、宮代さんは赤面をごまかすように勢いよく親子丼を消費しはじめ、反面俺は自分の選択を後悔しだしていた。
「宮代さん、親子に他人が入る隙はありますか」
「ん、あれ、多かったんだ?
じゃあいいだけ食べて、最後もらうよ」
◇◇◇◇◇
ドアを開けるなり回れ右して帰りたくなる。これは、ヤバいな……。たかだか新卒のフォローアップ目的の面談に、人事部長を含む数人であたる意味がわからない。
配属された先でイキイキ元気に働いて、文句も言わず問題も起こしていない俺にこの上どういう圧をかけようと言うのか。
社員証を見えるように取り出すふりで、宮代さんと事前に打ち合わせた手段をとる。
「失礼します」
「やあ崎谷くん! 元気そうじゃないか。
仕事にも慣れて頑張ってるらしいね」
「はあ、有難うございます」
頑張ってる。何処からどのように聞いたやら。意識的に神経を尖らせて、勧められた椅子に着く。
「さて、君はちょっと特殊なケースなんでね。
人数を増やして丁寧に面談しようと思って」
「はあ、有難うございます」
「相変わらず用心深いな、君は」
褒めてはいない気配を隠しもせずうすら笑い、思わせぶりに数枚の書類を取り出し、これ見よがしに俺以外の出席者に配る。事前に聞いているこの面談の趣旨からすると、紙が必要になるとしても聞き取ったことをメモする程度なのでは?
「ああ、そしてついでだからね。
先日の健康診断、引っかかってるところがあったから。
産業医の東山先生にも同席願ったよ」
唯一の女性が目が笑っていない笑顔で会釈をするのにあわてて礼を返す。宮代さんの危惧懸念が全部乗せでいっぺんに来た訳か。腹を括って顔を上げ、よく見えるだろう顔で笑ってみせる。
「よろしくお願いします。
僕の方からは特に聞いて頂きたいこともないのですが?」
「ほう!
現状に満足している、と?」
「ええ、何の問題も感じていません」
「そうかそうか、それなら私達のお願いも
受け入れてもらえるかな?」
「お願い、ですか」
「君が今の部署に配属された経緯を、
今後一切口外しないと同時に訴訟などを起こさない、
という誓約書にサインをしてほしいんだ」
一応、あの仕打ちやり口が世間的にはまずそうだ、までは意識がアップデートされたようで何よりだ。さっきの紙をようやく俺にも渡してくれた、その内容が誓約書であることを確認する。
だが、今更誓約書をとらなければ安心できないものだろうか。現状に満足しているのは正味の本音、何より人間関係が極めて良好な今を、変えないでくれと頼めるものならこちらから頼みたいぐらいだ。
「現時点までにそうした行動をとっていないということで、
ご不安は払しょくされませんか?」
「君がなんでもないただの新卒採用だったら、
こんなに手をかけることもないんだがね。
君の属性……というのかな。
我が社にとって都合が悪いことが多いんだよ」
意図はわからないが、もう一人分アウティングを重ねるべく東山先生を同席させている? 健康診断の結果で、労災につながるような問題が見つかった、とでも言うのだろうか。それともまさか、ゲイの血はどうのこうの、みたいな、何世紀前の話だという差別発言を用意しているとか?
「……健康診断で問題があったのは、
体重が平均を下回っている点と、
標準の範囲内ですが若干血糖値が高かった点です」
東山先生が口を開く。誓約書から何故健康診断の結果に話が飛ぶのだろう。この人なんでいるんだろう、そんな顔をしてしまっただろうか。
「通常は結果が書面でお手元に届いてからのお話なのですが、
ちょうどこのような面談があると聞いたので
同時にお話しさせて頂ければと。
宮代センター長との間に問題があれば
メンタルヘルスのご相談にも乗れますし……」
形ばかり目を曲線に細め、唇を歪めながら東山先生は続けた。
「ご両親に既往症、
糖尿病があったか、を確認したかったので」
「崎谷くん、君を『いじめた』となると、
一般的な新卒採用への対応のまずさに加えて、
今騒がれると厄介なLGBTへの差別、無配慮、
それから……震災遺児への支援不足とか、ね。
我が社の規模だと色々言われかねない訳だよ」
知られている。
面接のときは当たり障りなく、両親について聞かれることはなかったし俺も言及することなく切り抜けていたはずだ。履歴書だって緊急連絡先を祖父にしただけ、続柄を窺わせる要素は何もなかったはず。何故今、そんなことを持ち出して突きつけられなければならない?
冷静にならなければ、思えば思うほど耳の奥の鼓動が強くなる。怒鳴られた訳じゃない、この後暴力が待っていることもない。
ここは、逃げようがない祖父の家じゃない。
わかっているのに、手の震えが止められない。作った顔も壊れてしまっているのだろう、呆然と見る人事部長、東山先生も、優越感で満たしたようなにやにや笑いを浮かべている。
誓約書にサイン? それくらい、どうせ告発だとか訴訟だとかいう気はないんだから。応じて面談を済ませて、早くこの場から立ち去れればいいじゃないか。
俺の思考を読んだようにすかさずペンが差し出される。こんなことならはんこを持ってこい、って言ってくれればいいのに。のろのろと受け取ろうとしたペンは宙に浮き、床に落ちた。
「……!」
床に落ちたペンを拾おうとかがんだ、胸の奥で馴染みの振動パターン。見て確認することはできない。そうだという保証はない。それでも。
宮代さんと、繋がっている。
そう感じるだけで、俺はもう『死ねばよかった樹』じゃない。
身を起こし、ゆっくりとまばたきを一つ。顔を作り直して、拾ったペンを回してみせて、芝居がかった格好つけで言い放つ。
「誓約書、持ち帰って検討させて頂いても?」
途端に固まり、怒りと圧力に反転する場の空気ももう怖くなかった。「ただの新卒採用じゃない」、そのご期待にお応えしてやろうじゃないか。
「崎谷家の家訓でして。
サインやはんこはひとりで押すな、
十二の頃から祖父に叩き込まれて育ちましたので」
「誓約書を出すなら、このまま我が社に置いてやってもいい。
拒否すれば、自分から辞めたくなるような
不始末を起こしたことにするだけだぞ。
君も祖父への仕送りや奨学金返済、
収入が途絶えるのはまずいだろう?」
「持ち帰って検討したい、と言っただけですよ?
僕に熟読されると困るような内容が含まれている、
なんてことは……ありませんよね?」
ありませんよね、というのも白々しい、つまりはそういうことだからこの部屋から外に持ち出されると困るのだろう。そうそう思惑通りに動いてたまるか。
俺は、誰にでも愛想を振りまくネコじゃない。不当な扱いに項垂れて負けっぱなしはもうごめんだ。