「キスを、してもいいかな」
宮代さんの目にいつもと違う熱がちらついて、俺は唾を飲み込む。
キスしてほしい。したいと思ってくれたことが嬉しい。
うまく言葉に出来ないから、大きな手をとり自分の身体に導いた。
脇腹から、あばら骨の隙間をなぞるように。温かい手が形を確かめるように服の上を滑っていく。肩甲骨、背骨から首筋へ。襟足から髪を梳かれ、耳をそっと撫でられる。
こんな触り方――文字通り、愛撫、みたいな。どうしたらいいかわからない。
「み、やしろさん……」
「嫌じゃない?」
嫌な訳ない。首を振ると「よかった」と言いながらそっと頬に唇を寄せ宮代さんは笑った。
「崎谷くんが、かわいくて嬉しい」
「かわいくは、ないです」
「じゃあ、おれにはかわいく見える、でどうかな」
こんな時まで慮って、首をかしげて聞いてくるのにどっちがかわいいんだ、と言い返す余裕なんかなくて、目を閉じる。
顔じゅうに柔らかく唇を落とされ、周回軌道で唇同士を噛み合わされる。慈しむように吸われ、開いた口に厚みのある舌が入り込んできたのに驚いて固くつむっていた目を開けてしまった。至近距離で視線が交わった宮代さんは、上気した顔で笑みを深めたっぷりと唾液をまとわせた舌を絡めてきた。熱くなってきた耳の形をなぞり手のひらで包むようにふさがれると、頭の中はいやらしい水音でいっぱいになってしまう。
「んっ……あ、はぁ……っ、あっ、んんっ」
「は、あっ……もうちょっとだけ、ね?」
肺活量が違いすぎるのだろう、俺はもう完全に息が上がっているのに宮代さんは吐息一つこぼすのみ、べろりと唇を舐めて再びの侵入を試みてくる。
「おれの上、乗っかってて」
「あ……っ」
シンクに寄りかかり、腿の上に俺を乗せて今度は下から掬い上げるようにキスされる。不安定な体勢が怖いから。心中言い訳し首の後ろに腕を回すと、くっついている唇がまた笑みをかたちづくり身体の距離を詰められる。
勃ってしまうかもしれない。
宮代さんの腿で刺激されながらこれ以上深いキスが続けばきっと、男の身体にしかない部分があからさまになってしまう。
「ん、ふ、あっ……みやしろさんっ!
すこし、はなして……」
「なんで……? まだしたい……」
なんでって、それを説明しろと!?
正直俺だって、やっとのことの恋人らしい接触を堪能したい。十中八九ないだろうと思いながらも一応、念の為、と後ろもそれなりに準備して来ている程なのだ。今のキスの限りではたぶん、全く無理ではなさそうだけど、これ以上いけるのかどうかは――。
「っ、こうなっちゃうから、です」
サービスとして言わされるならともかく、状況を説明して一気に引かれる可能性がある今は言葉より早いか、と、宮代さんに乗り上げた足を地につけ、手を兆した部分へ導く。
思いの外力が入らなくなっていた脚のせいで、よろめいてそこを更に押し付けるような形になってしまった。もし嫌悪感を覚えていたら、この状態はとんだセクハラを強いている。焦って宮代さんの手を離そうとするのに、反対に強く腰を引き寄せられた。
「キスで、こうなっちゃったんだ?」
「や、ごめんなさ……っ」
「どうして? 嬉しい。
おれもほら……ね?」
ぐっ、と、俺と同じ昂ぶりを押しあてて、宮代さんは言葉通り嬉しそうにまた俺の唇にかぶりつく。あからさまに欲を煽る腰の動きと同時進行で舌を絡めとられ、翻弄されて息も出来ない。
宮代さんも勃ってる。
その事実に目の前が火花で眩むほど興奮する。発情した犬みたいに服越しの性器を擦り付け合って、噛み合わせた唇の隙間から止めようもなく喘ぎが漏れる。脚から力が抜けて、立っていられなくなって、宮代さんに体重をかけてしまう。
もたれかかった身体を強く抱きしめて容赦なく追い上げる動きに俺はあっけなく射精し、わずかな時間意識を飛ばした。
◇◇◇◇◇
「ほん……っとうに、ごめん……」
「そんな、あの、すごく悦かった、ので……」
俺だけイってしまって、むしろ申し訳ないぐらいだ。
汚した下着の代わりに、とストックを一枚出してもらってしまったのも申し訳ない。サイズが全く違うのでボクサーパンツがトランクスになってしまっているが、これは今日の記念として永久保存重要文化財指定ものだ。
「こういう暴走が怖かったのに、結局おれは……」
「暴走だった、んですか?」
俺と、で、興奮はしていたように見えた。男相手が初めてとは思えないぐらい的確に、意地悪なほどに昂らされて、宮代さん自身も勃起はしていた。だが結局イくには至らなかったので俺ほど夢中な訳ではなかったのかと思っていたけど違ったんだろうか。
「食べながらする話じゃない、けど、
何かしながらでもないと気まずくて話せないな。
聞いてくれる?」
「はあ……」
目の前の豚の角煮をつつきながら宮代さんは話し始めた。お手製のそれを、俺には脂身を取ってよそってくれている。好き嫌いを言葉にしてはいなかったが、一緒に食事をする機会に気付いてくれていたのか。こんなに俺を気遣ってくれる宮代さんに、暴走するほど求められていたのなら――この身体くらい、どう扱われても嬉しいだけだ。
「その、ちょっと前から勃つようにはなってて、
そういう気分になるきっかけも
なんとなくわかってはいるんだけど」
「? 改善してきてるってことですよね?」
「改善、ん、まあ……
崎谷くん、気持ち悪かったら言ってほしいんだ。
君の泣き顔とか、さっきの、苦しそうな顔とか……
そういうのに、すごく、興奮する」
俺としては男で大丈夫だったならよかったと安心するばかりだが、何か問題があるだろうか。首をかしげて先を促す。
「おれは、今まで自分にサドっ気があるなんて
考えたこともなかった。
ひどくしたいなんて思ってもいないはずなのに
息が切れて苦しそうな君をあんな……」
もうちょっと、ハートが乱舞する感じの演技でもすればよかったのかな。とは言えそんな余裕は全くなかったし、その方面に長けているようなら過去再三「可愛げがない」と評されることもなかっただろう。口の中の食べ物を処理しているふりで考える。
「……俺は、すごく嬉しかったですよ。
宮代さんが俺で勃ってくれるなんて夢みたいで、
ひどくされたなんて全然ないです」
結局上手い言葉も出てこないから、正直な気持ちを伝えるだけだ。つまり「興奮を覚え勃起はするけど、俺を虐げているのでは、と思うと萎えてしまう、射精には至らない」が宮代さんの現状だろうか。
「じゃあ……俺、口でしましょうか?
腕に覚えがあるとは言えないけど、
いつかさせてくれたらって思ってましたし」
「口で……って」
「フェラチオです」
途端、宮代さんは噴き出しかけ、こらえ、ひどくむせた。
「ふ、フェラ、って、崎谷くん!」
手振りで伝えるよりは印象がいいかと選んだ言葉は逆効果だったらしい。
「そんなの、そんなこと……
そんな、もっとひどいこと出来る訳ないだろ」
おれのは大きくて、怖がられるようなやつで……。
自慢の意味ではなく、どちらかというとトラウマに近いような懸念を抱いているらしい宮代さんに、どう言うのが一番穏当なのか考える。
大きいのはご褒美でしかない、みたいなことは、宮代さんの中の『崎谷くん』は言わないんだろうな。
どうも宮代さんが思うところの俺は実態の三割増しくらい清純派、性欲が薄い設定になっているみたいだけど、本音、本性としては好きな人とは隙あらばセックスしたいぐらいにはスケベだと思う。後ろに挿入されてガンガン突かれるのも、口の中を刺激で育っていくものでかき回されるのも、宮代さんので幾度となく妄想済みである。
とは言え、セックスしたいからその大きなイチモツを早く勃てて、なんて暴力的な言い方は厳に慎むべきで……言葉以外の口の使い方、肉体言語を試してもらう訳にはいかないだろうか。
「あなたのを、口で愛したい。
ダメですか……?」
「あい、いや、ダメじゃ……
崎谷くんがいいなら、ぜひなんだけど……」
ごめん、今日はもうたぶん勃たない……。
茹だったように赤い顔を大きな手で覆って、消え入りそうな声で音を上げる宮代さんに、これ以上追撃を加えるほど人非人にはなれなかった。
◇◇◇◇◇
「うわっ、姉さんからだ」
せめてそれくらいは、と皿を洗わせてもらっている横で宮代さんが嫌そうにつぶやく。宮代さんのお姉さんにして真哉くんのお母さんの真弓さん。姉弟と言われれば納得がいく容姿だが、性格はだいぶ違いそうな印象だった。
「崎谷くんにお礼を言いそびれた、だって」
「お礼、ですか?
真弓さんにお礼を言って頂くようなことは……」
言いかけると、宮代さんがフリーズした気配。あれ、何か変なことを言ってしまっただろうか。
「崎谷くん、あの、ね。
姉のことを名前で呼ぶのは」
「あ……っ、すみません!
苗字はもうすぐ戻るし、真哉くんとも紛らわしいし
名前で呼んでね、と言われたので」
馴れ馴れしすぎただろうか。確かに職場の部下の立場でも、言わないまでもお付き合いしている立場でも、たまたま遭遇しただけの親族の方を名前で呼ぶのは距離を詰めすぎだったかもしれない。
「違うんだ、崎谷くんが悪いんじゃなくて。
おれの勝手なアレで、ダメだったら
全然却下で構わないんだけど」
おれも、名前で呼んでほしい。
泡だらけの手を避け肘のあたりをそっとつかんで、頬を染め視線をさまよわせる宮代さんは、やっぱりかわいい。感覚として身についていないので名前で呼ぶ意味、タイミングなんかを考えてもみなかったが、恋人を差し置いて、と思わせてしまったみたいだ、と理解する。
向き直って、目を合わせて、笑顔を作る。名前で呼ぶことに意味を持たせる、あなたにしかしない特別なことだ、と伝わってほしい。
「善爾さん」
耳元に口を寄せ、ていねいに呼んでみる。今はまだ馴染まない感じだが、自然に呼べるようになるくらいの時間を一緒に過ごせるだろうか。
「ありがとう」
こんなに嬉しそうな顔で額に、まぶたに、頬に、最後に唇にキスをしてくれるなら、もっと早く呼んでみればよかった。濡れた手は浮かせたまま腕だけ回して抱きつくと、宮代さんはすぐに察して抱き返しながら唇を甘噛みするキスを繰り返しくれる。
「ん……
ここに、お邪魔した時だけ、にしますね……」
「そう?
ほんとは会社でも名前で呼んで欲しいけど」
「だって、お互いこんなに
ゆるゆるになっちゃうじゃないですか」
「ふたりきりなら、大丈夫じゃない?」
大丈夫ではないと思う。俺は宮代さんに関することはあまり、全く、取り繕うことができないし、宮代さんも(嬉しい事ではあるが)同様だ。下品な当てこすりが結果的に現実になった俺たちのお付き合いは、ある意味『会社公認』として開き直ればいいのかもしれないが、徒に宮代さんの立場を悪くすることは避けたい。
「あと、ね、
おれも、崎谷くんのこと名前で呼びたい」
それは、嫌だ。即座に、たぶん顔色に出してしまったものを隠したくて胸に顔を埋める。名前を呼ばれるのは、怖い。宮代さんには、愛されない『樹』という名で呼ばれたくない。
「ごめん、なさい。
俺は、崎谷くんって呼んでくれる声が好きだから」
せっかく、親密に思ってくれてのことなのに。素直に喜んで、宮代さんのように嬉しそうに、何故できないんだ。
「そうだね。
じゃあおれは、好きになった時のまま
『崎谷くん』って呼ぶことにするよ」
少しだけ抱き寄せる力を強くして、頭蓋骨に振動で伝えるように宮代さんは言う。説明もしないでかわいげなく名前で呼ぶな、なんて俺に、察して、歩み寄って、優しくしてくれる。
いつか『樹』と俺を呼ぶ人が誰もいなくなったら。宮代さんだけがこの名で呼んでくれるなら、きっとその時は。
「ありがとうございます。
……善爾さん」
顔を上げて、目を閉じ唇を寄せる。すぐに応えて音を立てて吸うキスを交わす、この人のことだけを考えていられればいいのに。