04.崎谷樹の浄化

「崎谷くん、好きです」

 あれ、俺、もう家に帰って寝てたんだっけ?

 そもそも今日はコンディションは最悪だった。酔っぱらって、泣いて、寝て……寝転んだだけで。意識が途絶えた実感なく朝になり出社。珍しくギリギリに慌てて出勤してきた宮代さんの剃り残しのひげに興奮する場合でも暇もなく、全く昨夜の話ができないまま那須さんと昼話し――戻って来たところで俺に笑いかけてくれたんだった。

 願望が見せる錯覚でなければ。
 部下や後輩に向ける好意とはもう言えない、那須さんが言う『甘ったるい』笑顔だった、と思う。

◇◇◇◇◇

「宮代クンとなんかあったんか」

 開口一番ド本題である。那須さんが俺に何か言いたいことがあるならわざわざ外に出るまでもなく席に呼んでくれれば済む訳で、この常にない昼休憩は宮代さんに対して何か、だろうなとは思っていた。
 だけど「なんか」というのは、何だろう。今朝の宮代さんの様子を見て、ってことだろうか。

「昨日はトナー交換のあといつも通り一緒に帰ったぐらいで……」
「いつも通り、一緒に帰る。
 まさか、毎日一緒に帰ってんの……?」
「? そうですね、一緒に出て施錠して駅まで、
 毎日、ですね。
 たまに夕飯も一緒に食べて帰りますけど、昨日は」
「崎谷、お前、なんつーか、大丈夫?
 それもう距離おかしいだろ……?」
「……あ……俺……
 図々しかった、節度ない感じですか……?」
「ち、……っげーよバカ!
 とりあえずお前は食ってろ、聞いとけ!」

 怒鳴りつけそうになった声を無理やり抑え、那須さんは俺にいつも通り素早く出てきた丼を促した。初出勤の昼に宮代さんが連れてきてくれたランチ営業の居酒屋は、その後いつ行っても出てくるのが早いのがありがたく、すっかり常連になっている。

「あのさあ、あーしの都合だけで言わせてもらえば
宮代クンと崎谷、今の二人セットってのがやりやすい訳よ」

 器用に綺麗に、素早く丼を食べていくという至難の技をこなしながら那須さんは言う。

「だからまあ、仲良く平和にやれてんなら文句ねえけど……
 ごめん、こういうの無神経に聞くもんじゃないだろうけど
 その、付き合う的な感じに進んでる、のか?」

 言いにくそうに聞く那須さんは、いつものビジュアルと音声に乖離がある様より不思議に可愛らしい雰囲気だ。忙しくなりそうだった今日、わざわざ外に出て話すことがただの恋バナな訳もないだろうし、俺がどうせバラされているんだと開き直って宮代さんに好き好き言うのに苦言を呈したい、のかな。
 食ってろ聞いとけ、との指示を尊重し、口を開けられない体を装って取り急ぎ首を振り否定してみせる。

「マジでか…… そうじゃないかと思ってたけど
 違ってりゃいいとも思ってた」
「……?」
「崎谷、お前さあ……
 あんな顔向けるのに何も言わない男なんかやめとけよ」
「え、え? あんな、顔って」
「お前が気付いて自衛できる性質たちなら
 あーしもこんな野暮は言わねんだわ……。
 でれっでれの甘ったるい顔で名前呼ぶとか、
 今朝なんか取って食いそうな目でお前見てたし」
「宮代さんが、ですか? 俺がじゃなくて?」

 自分が宮代さんに向ける顔については、隠蔽、抑制、自重、そういったものを全く効かせていない自覚がある。とにかく宮代さんが嫌悪感をあらわにしないなら、と、絶対に裏切らない味方、子分、パシリでもなんでもどう見てくれてもいい、腹を見せて寝そべる犬みたいにアピールしてきた。
 でも、一方の宮代さんがどうなのかは――最近よく笑ってくれるようになった、とは思うものの、俺のせい、とか影響と言えるのかはわからない。
 那須さんには何か、俺が見ているものとは違うものが見えているんじゃないだろうか。

「それに、宮代さんはノンケだし。
 俺なんかにそんな気にはならないと思います」

 ノンケの上に勃たない、性的な興奮が遠のいている、という条件を考えあわせれば、同好の士にすらあまり受けがよくない俺にどうこう、は考えにくい。

「ノンケってのも今まではそうだった、ってだけだろ。
 お前、俺なんかって言うけど、うちですげぇモテてんだよ。
 ゲイでなけりゃ、宮代クン一筋じゃなきゃ、ってな。
 女にモテてもしょうがないのかもしれないけど」
「はぁ……いや、なんかだましてるみたいで気まずいな。
 ありがたいことだとは思いますが」
「って反応だからあぶなっかしいんだよ……。
 いいか、まずお前は自分が強者だってことを自覚しろ!」

 強者。非力ぶりを露呈した昨日の今日でどこらへんが? と困惑したのが顔に出たのか「恋愛市場で、ってことだよ!」と呆れられる。

「客観的に見れば宮代クンは一回りも上のしょげたおっさん、
 若くて見た目がよくて仕事も出来てモテるお前が
 なんもかんも捧げつくす相手じゃないだろうが」
「おっさんって! ひどくないですかそんなの」
「ひどくねえ! 同い年のあーしが身を切って言ってんだ、
 まあ聞けや!」
「!? 那須さん、宮代さんと同い年……?」
「じゃなけりゃクン付けはしねえ」

 「おっさん」に引っかかってつい反論してしまったが、那須さんにこうまで手放しで褒められるなんて。不意打ちすぎてじわじわと顔が赤くなっているのが自分でもわかる。
 心配してくれているんだろうな。俺にもし姉がいたらこんな感じだったのだろうか。家族、身内と縁が薄いからどう答えるのが正解なのかわからない。

「宮代クンがそういうクズだかは知らんけど、
 世の中好かれてたら図に乗って利用してくる奴も多い。
 ……崎谷ァ、お前割とそういう目にあってるだろ」
「……否定は、しません」
「だよな。だからさぁ……
 もっと追っかけて尽くしてくれるような奴にしとけっての」

 そう言って、那須さんは親子丼のラストスパートにかかる。にわとりさんがかわいそう~などと甘ったれた演技をしそうな風情で、昨日今日成り行きで一緒に働くことになった俺にこんなにも親身になってくれる。
 それでも、それなのに俺は忠告を素直に聞くこともなく宮代さんになら利用されてもいい、なんて思ってしまうんだ。

「だって、宮代さんが好きなんです」
「……泣くなよ。あーしが泣かしたってバレたら
 宮代クンがこえーだろうが」
「これはわさびで泣いてるんです」
「結局泣いてんじゃねーか」

 お前、頭いいのにバカなんだよなあ……。

 寝不足でぼやけた頭には過ぎたる那須さんの優しさで、涙腺がバカになってしまう。一方通行でいいとか、可能性があるならあわよくば、とか、ぶれまくる自分の気持ちの中でただ一つ確かなのは、俺は、宮代さんが好きだってことだけ。

「まあ、言っても無駄だとは思ってた。
 余計なお世話だろうってのもな。
 だからせめて、もうちょっと向こうにも
 腹括ってもらおうや」
「腹を、括る?」
「もうちょっとは駆け引きしろってこと。
 好きだも言わねえ男に尽くしてやるこたねえ、
 ちょっと邪険にしてやれよ」
「そんなこと、出来ません」
「出来る出来ないじゃねえ、やるんだよ」

 尻に敷いて上手く操縦してくれりゃあーしは文句ねえし。

 にやり、と笑ってお茶を飲み干すのに、慌てて残ったご飯をかきこむ。邪険に――そんなことが出来るくらいなら、と思ってしまうが――『普通』の上司と部下、先輩と後輩の距離を設定してみればいいんだろうか。

◇◇◇◇◇

 那須さんと二人、休憩から戻るとそこはド修羅場。
 謎に今までとは段違いの、甘やかで俺だけに向けて滲み出すような宮代さんの笑顔、「おかえり」と音なく迎えてくれた言葉に浸る暇もなく、あれよあれよという間に俺はひとり他部署へレンタルされてしまった。
 火事場の馬鹿力か、何らか意識改革の波が来たものか、戻ってきてみたら宮代さんは普通にフロアの皆さんとやり取りを交わし、ご相談ラッシュを捌いていた。だからこそ俺を貸し出しても支障ないという判断に至ったのだろう。

「いやあ、助かったよ!
 開発はこんなことに人貸してくれないしさ」

 愛想よく応対してくれるところからしてどうやら俺の事情は聞かされていないみたいだけど、端々にちょいちょい差別意識が滲んでいる。

「お役に立てたなら何よりです。もう戻っても?」

 量販店に応援販売で出向いた営業の人に助け船――リコールになった他社類似製品との比較、相違点などをお客様にわかりやすく話せるよう要約して伝える、という仕事だった。
 普段応対している一般のお客様に比べれば話が早いか、と期待したものの、テンパってしまっている人、はなから聞く気がない人、製品仕様まで把握して営業している訳ではない人などなかなかのラインナップ。結局閉店時間近くまでここを離れられない事態になってしまった。

「ああ、今日はね。
 明日からもしばらく来てもらえないかな?
 リコール絡みは続きそうだし」
「それは、僕では決められません。
 今日のやりとりのメモと、マニュアルの該当箇所に付箋、
 チャットルームにだいたいのやりとりは残してあります」
「え、そうなの?
 じゃあ来てもらわなくてもいいか」

 そのくらいのことで撤回するなら簡単に呼びつけないで欲しい。同じ理由でコールセンターだって明日からしばらく忙しくなりそうだし、そもそも新卒の試用期間も終わってない俺でなんとかなることを解決できないってのは恥ずかしくないのか?
 苛立ちは苛立ちとして、今日のところはとにかく早く離脱したい。たぶん宮代さんを待たせてしまっているだろう。

「何かありましたらまた、失礼します」

 なんだか毎日のように走って逃げているようで可笑しくなる。今日のこれは走り去るんじゃなくて、宮代さんのところへ駆けつけるほうだから。そう思うと不格好にばたつく駆け足もなんだか楽しい。会社の中をこんなに無遠慮に走れることもそうないだろう、と可能な限りダッシュしてみる。

◇◇◇◇◇

……そうだ、俺はまだ帰れても眠れてもいない。

「俺、いないと困るくらいには働いてた、でしょうか?」
「うん、もちろん。
 でも今のは仕事のことじゃない。
 君の、恋人になりたいんだ」

 明確に『そういうつもり』で「好き」と、迷いなく言ってくれている。そう思っていいんだろうか。

「あの、宮代さん、女性が怖いの直ったんですよね」
「たぶんね。
 だからこそ……君にそばにいてくれって言える
 理由を作りたい」

 女性と普通に、元通りに関われるようになったのに、俺のことを好きだと言ってくれる。那須さん言うところの『しょげたおっさん』でなくなった宮代さんに、俺が差し出せるものなんてあるんだろうか。

 役に立てることがなくても、好きでいてくれるんだろうか。

 嬉しい、好きだ、怖い、どうしよう。
 走った後の動悸に混乱が上乗せされて、胸が苦しい。どうしたらいいのか、どうやって顔を作っていたのか、もうわからない。

「崎谷くん!」

 願望が投影された淫らな夢にまで見た宮代さんの、たくましい腕に抱き留められて俺の膝は床との激突を避けられた。昨日からの常にない酷使にとうとう音を上げた俺の脚は、自重を支えることすら放棄し脱力したようだ。

「俺、俺なんかじゃ、男じゃ……」

 脚だけじゃない、身体のどこもかしこも仕事を放棄してしまっている。昼に涙腺の栓が抜けてしまったのか、泣いてしまっていることがわかるのに止めようがない。支えてくれる宮代さんだって重いだろうに、ちゃんと自分で立たないといけないのに。

「……ちょっと、ごめんね」

 ひとこと呟いて、ぐいっと引き寄せられ抱え直される。涙で曇った視界に近づいてくるものに反射で目を閉じると、ちゅ、とやわらかく湿った音。閉じたまぶた、涙がたまったまつげ、頬まで、微かな音を繰り返しそっと唇が押しあてられる。

「これ以上は、君が許してくれない限りはしないけど。
 いつか言ってくれたことがまだ有効なら――」

 エロいことは、崎谷くんとだけしたい。

 頬から耳に流した唇で直に吹き込むように囁かれ、うなじから尾てい骨まで微弱な電流が走ったように身体が跳ねる。
 この大きな身体に、広い背中に、腕を回していいんだろうか。恐る恐る手を伸ばし、腕を巻き付けてみる。途端に気付いて抱きしめ返してくれる宮代さんの、鼓動が早い。

 嬉しい、もちろん俺も好きですなんて、スマートに、重荷にならない感じで返せたらよかった。そうするべきだった。だけど、きっと困らせてしまうのに、熱い塊が喉を、目を埋め尽くし、溢れ出してくるのを止められない。
 よく思ってくれている風に言ってくれた顔がきっとぐちゃぐちゃになっているのを見られたくなくて、しがみついて胸に顔を押し付けて声を上げて泣いた。ずっと抱きしめ続けて、胸を貸して髪を撫でてくれた宮代さんは、どう思っているだろうか。

「あっ! まずい、そろそろ警備の人来ちゃうな」
「え!? うわっ、す、すみませんっ!」

 慌てて顔を上げると、もろに視線がぶつかる。見られたくない、などと言っている場合ではなく、ぐい、と手で顔を拭い謝ると、宮代さんは何故かフリーズしみるみるうちに顔を赤くした。

「え……?」
「いや、その、ごめんっ! とりあえず鍵かけて出ようか!」

 ばたばたと荷物をとりまとめ、ごみは明日でいいものとして部屋を出る。まだ明るい廊下で改めて見るとかなり……相当、宮代さんのシャツは濡れてしまっていた。

「宮代さん、シャツ……ごめんなさい」
「っ……、大丈夫、全然、すぐ乾くよ」

 どこか片言めいた答えを返しながらそっと背中を押してくれる温かくて大きな手。この手がいつか俺の身体を楽しんでくれることを期待してもいいんだ。
 昨日の帰り道とは逆に、少しだけ距離を詰めてみる。恋人、なら許されるかな。目で問うように見上げた宮代さんは、嬉しそうに、とろりと滴るように笑ってくれた。