不覚。その一言に尽きる。
始業3分前を切って駆け込むなんてことは、メンタルヘルスがどん底だった時にもやらかしていない失態だった。
いい歳をして馬鹿みたいだけど、眠れなかったのだ。
崎谷くんに、会社を離れてもおれに時間をくれるか、と、無茶なお願いをしてしまった。所属長からあんな、圧を感じるメッセージを受け取ったら断れないだろう。冷静になって考えたらパワハラ以外の何物でもない。
最後に送ってくれた「OK!」の本当の意味を考えれば考えるほどゆうべ走り去る直前見せた崎谷くんらしからぬ表情が思い出され、目を閉じても耳が冴える。救急車、配送のトラック、新聞配達……普段は寝ている時間の音をいちいち拾い上げて意識があるまま時間ばかり過ぎていく。
閉じたまぶたの向こうが明るいことに、気づいた時間は普段なら家を出るか出ないかというタイミング。慌てて身支度、家を飛び出し電車に飛び乗りなんとか遅刻は回避したものの、寝ぐせやひげの剃り残しがあるんじゃないかと気が気じゃない。
「おはようございます」
「おっ、おはようございます! 遅くなりました……」
「ギリギリセーフですから」
那須さんと話していた崎谷くんが、迎えるように来てくれた。いつもより少しだけ、一歩か半歩の分近くでそっとシャツの袖を引かれる。
「昨日は、すみませんでした。
あの後酔っぱらっちゃって……スタンプ失礼だったら」
「あの後酔っ……!? あの、こちらこそ本当にごめん。
無理だったら断ってくれても」
「違うんです、嬉しい、それはほんとなんです。
でも……」
言いよどむ崎谷くんを注視してしまう。
普段二人の時は専らおれが酔っぱらうほう、崎谷くんは飲んでも少し顔色に出るくらいでアルコール耐性が高いんだと思っていた。
今俯いていた顔を上げおれを見返す崎谷くんは、わずかに充血した目、よく見ると腫れぼったい気がするまぶた、言葉を選んでいるのか軽く噛んだ唇――二日酔いかどうかはわからないがあまり具合が良くはなさそうだ。
それなのに、いつもの冴え冴えとした様子と比べ血の気が通ったようなその顔に、我知らず生唾を飲んでいた。
「すみません、後でまた」
確かに、ギリギリ滑り込みセーフのところから話し始めた訳だから既に完全アウト、始業時間は過ぎている。「ごめんね」と崎谷くんには片手で拝んでみせ慌てて着席、準備をする。
昼にはまた話せるだろうか。
起動画面を眺めながらぼんやりと考えていた、その頭の中を察したかのように鋭い視線が刺さった、気がした。顔を上げると、久しぶりに那須さんと目が合う。厳しい発言とは裏腹に随分とおれに気を使ってくれる彼女は、なるべく直接おれを見ないようにしてくれていたのだが、今は。
明確な怒りを隠さず見た目の柔らかさをかなぐり捨てて、おれを睨んでいた。
◇◇◇◇◇
寝不足などという個人の事情に関わらず今日もコールセンターは大繁盛である。他社製品でリコール回収が発生したとのことで、とばっちりのようなお問い合わせが増えているようだ。
崎谷くんはほとんど着席できず、通話中のスタッフに資料を指し示して助け舟を出したり、製品の実機を確認してみせたりと忙しく立ち働いている。
言われてみれば、筋肉はあんまりついてないかもしれないなぁ……。
クールでシャープ、スマートといった形容詞がよく似合う印象の崎谷くんがまさか運動が苦手だとは思ってもみなかったが、その体つきをよく見ると華奢とすら言えそうだった。
言い訳になるが、会社外で会って話せないか、と思ったのはそのあたりが心配になったからだ。恐らくはBMIなりが低すぎる等で健康診断に引っかかると、産業医と面談、という羽目になる。おれと同じ部署というだけで何か起こると決まった訳ではないが、崎谷くんの存在をあの女に知られたくない。勝手に、だが強くそう思った。
「宮代さん」
思い浮かべていた相手に声をかけられるのはかなりぎょっとするものだ、と身を以て知る。挙動不審の一部始終を見られていたら恥ずかしいけど、どうだっただろう。恐る恐る振り返ってみる。
「はい、なんでしょう」
「昼休憩なんですが、
ちょっと早めに那須さんと出ても大丈夫でしょうか」
「え……っ、あぁ、うん。
もちろん、めったにないことだしね」
「ありがとうございます。
なるはやで戻ってきます」
那須さんが、崎谷くんに何か話をしたい?
朝の鋭く厳しい目を思うと、おれに言いたいことがあって、かもしれない。
女性に向き合うのはまだ怖い、は怖い。だが一番ひどかったころの、喉がつまり、歯が鳴る震えが止められないほどの状態にはもうずいぶんとご無沙汰だ。
であれば当然そろそろもう元通り、独り立ちを考えなきゃいけない。崎谷くんがその能力を発揮できるような、正当な評価を得られるような部署へ異動できるように――おれの面倒など見なくて済むように。
今はまだ、その寂しさを想像したくはないけれど。
◇◇◇◇◇
独り立ちなどとはどの口が言ったか、ツートップ不在のお客様相談窓口コールセンターは現在火の海火だるま大炎上中である。電話の向こうの未知なるお客様のほうが百倍怖いような状況で同僚のよく知った女性に震えている訳にもいかず、結果的には荒療治、もはやごく普通にやりとりを交わしている。
まさか獅子の子落としという訳じゃないだろうと思いたいが、崎谷くんはともかく那須さんは有り得ない話じゃない。
「宮代さん、お願いします!」
「了解です、チャットの方引き継いでください」
初めて会った日に言っていたような、おれの付属品装備品なんて今はもう全くあたらない。おれのほうが振り払えない呪いの指輪か何かになっている気すらする。
どうしたらいいだろう。崎谷くんと離れたくないんだ。
助けてほしい、傍にいてほしい。
崎谷くんの将来を考えて、なんて綺麗事は嘘だってわかってしまった。女性が怖いという要素がなくなっても、昼休憩ほどのわずかな時間でも、その姿が見えないだけでこんなにも不安になってしまう。
でもじゃあ、どうして?
例えばおれか崎谷くんが女性だったら。何故、の答えにこうまで躊躇うことはないんだろう。おれの身体、性欲がまともに機能する状態なら、自ずと答えは出ていただろう。
結局、わかっている。助けてくれて、傍にいてくれて、おれを好きだなんて言ってくれる崎谷くん――そんなの、どんどん好きになってしまうに決まっている。
たぶん今顔を見られたら、それでもう迷わない。
「すみません!」
囁いて、足音を立てないように戻ってきた崎谷くんが目の端をかすめる。周りに手を合わせて謝りながら着席する那須さんと共にすぐに業務を再開しようとしている、その邪魔にしかならないことはわかっていたが言わずにはいられなかった。
「おかえり」
目を合わせて、口の動きだけに言葉を乗せて、確認できた気持ちを取り出して見せるように。
今までずっとこんなおれに心を傾けてくれてありがとう、嬉しいというために。
出来る限り優しく見えれば、と笑顔を作る。
途端、見たことのないような赤面を垣間見せた後、消音モードも吹っ飛ぶ椅子への座り損ねを起こした崎谷くんに目を奪われ、お客様への対応がおざなりになった……のは無理からぬことながら反省しなければならない、んだろう。
◇◇◇◇◇
「眠い……腹が減った……」
どっこいしょ、などと言う代わりに現存する二大欲求で拍子をとり、ごみをまとめる。自覚した想いで満開のお花畑と化した寝不足の脳みそを抱えて、恐怖を克服した今皆さんとの連携もスムーズに近年稀に見るお問い合わせラッシュをちぎっては投げちぎっては投げ――。自分の心中でしか言わないのだからこれくらい盛った表現も許されたい。一言で言えば大忙しだったのだ。
崎谷くんとはあの後、言葉を交わすどころか近寄ることも出来ていない。コールセンターきっての自社製品把握率を買われ、他部署に駆り出されてしまったのである。
今日の突発的な修羅場の原因は、おそらく他社類似製品のリコール騒ぎだろう。エンドユーザーたる「お客様」、既に購入した人からの相談が立て込んだお客様相談窓口コールセンターと同様に、購入を検討している人が量販店で質問する事態が多発。応援販売で行っていた営業担当が社内に泣きついたものの応対が出来ず巡り巡って、という経緯で崎谷くんは連れていかれてしまい、まだ戻れていない。
このまま引き抜き、なんて言われたらどうしよう。
恥も外聞も臆面もなくわがまま100%を主張するなら絶対に嫌だ。言えるものなら「うちの子は渡しません!」と抵抗したい。
しかし不当な配属、環境を変えられる願ってもないチャンスを、のぼせあがったおれが潰すなど許されない。
とは言えいくらなんでも遅くないか?
若干発生してしまった残業の後急いで退勤した皆さんの最後に、那須さんは結構な勢いで背中に平手をくれ「これからは直で言うからな。……また、よろしく」と言い置いて帰っていった。給料分働くだけ、とドライな姿勢を見せながらその実、面倒見と根気のいい彼女にどれだけ世話になっているか。よろしく、などと言う言葉はおれの方から、土下座とともにでも言うべきだと思う。
思うのだが……「これからは直で」はつまり「今日は崎谷くんから」何らか伝えられる、という意味か。それなら尚更様子見も兼ねて迎えに行きたいが、おれしか残っていないこの部屋を無人にしてしまうのもまずい。結局は待つしかない状態の手持ち無沙汰をどうにかしようと普段放置のキャビネットの掃除を試み始めたところに、廊下に走る足音が響く。
確かに、これは運動が苦手そうな走り方だなあ。優秀でかっこいい崎谷くんのかわいいところ。疲れているだろうに、走るほど急いだりしなくていいのに。
「宮代さん、すみません!
俺が戻ってこないから帰れなかったんですよね!?」
「いや、待ってたんだ。
……おかえり、崎谷くん」
君に会いたくて、待ってた。口にはしないけど伝わってほしい。そう思いながら出迎える。
「たっ……ただいま、です」
少し上がった息と赤くなった顔で、困惑した様子でそれでも応えてくれる。
「向こうはどうだった?
大変だったよね、ごめんね一人で行かせてしまって」
「大変だったのはこっちも、宮代さんもですよね。
お昼も、ちゃんと食べられました?」
「いや~……ちょっと、抜けられなくてね……」
「ですよね!
ほんっとすみません、
俺はちゃっかり那須さんとご飯行ったのに!!」
勢いよく頭を下げる崎谷くんから、本来所属長としてはまず駆り出された先での業務内容を聞き取らなければならないだろう。こんな時間まで、ということは大いに貢献してきたんだろうけど、事によっては抗議する、臨時手当を要求するなどおれが動かなきゃいけないところも出てくる。
それなのに、おれが真っ先に口にするのは。
「崎谷くん、好きです」
まだ間に合うなら、同情や、かわいそうだと思うのの延長でもいいから。
好きという気持ちの内訳を、恋として受け取ってほしい。