07.水曜日の夕暮れ

※ラダの、街での他人との肉体関係の気配がある描写が含まれます※

 思いのほか遅くなってしまった。ガラムが勝手に衝撃を受けたラダとの通話から水曜日を無駄に一度過ごしてしまった上、現在時刻は午後6時過ぎ。連れてきたキリのことを考えると少々問題のある時間になってしまっている。

「ごめんな、キリ。帰るの遅くなっちまうかも」
「ん、カナンには遅いようなら先寝てって言ってきたし」

 首を振りながら言う言葉はさながら長年連れ添った夫婦のようで少し可笑しい。迷いが消え自然とカナンを気遣うキリに、どっちが年長か分からないな、とガラムは心中自嘲する。

「一応、俺は船で待ってるつもりだけど
 時間決めて迎えに行くから。7時半……くらいかね」
「うーん……ラダさんが俺に何を話したいか、
 ガラム兄は何か聞いてるか?」

 時間はそれによると思うけど。
 至極もっともな意見に、しかしガラムは返す言葉を持たない。今日訪ねるという連絡もひどく言葉数少ないもので、ガラムとラダの間は今何か聞ける、会話ができるような状態ではなくなってしまった。

「……聖獣は聖獣同士で話したいんじゃないか?
 キリだけに話したいことを俺が聞く訳にも、さ」
「そうか、そうだね。
 じゃあ最初にラダさんにも7時半って言っとく」
「そうしてくれ。話し足りなかったら……
 水曜日じゃない昼間に時間作ってくれって言うか」

 恋人との時間を過ごしているかもしれないのに、嫌悪している儀式の話に時間を割けなどと言えるのだろうか。ラダが話してみて、キリの印象が悪く受け取られはしないだろうと確信しているが、どうしたって街まではガラムが連れてくることになる。それを嫌がられはしないだろうか。ガラムは改めて気持ちが沈んでいくのを感じる。今これから顔を合わせるのも少し辛い。

「あと路地を3つ通り越して、
角のビルの4階……だったよな……」
「……ガラム兄、大丈夫……?」
「ん、何が? 流石に何度も来てる道だ、
 間違えたり迷ったりしないぜ」
「それは心配してないけど。
 ……こないだから、元気ないように見えるから」

 親しくない者には誤解を与えるだろう、真剣さ故に鋭くなる視線をガラムに据えキリは言った。カナン曰く羞恥心を解さず時に無神経と評されたキリだが、弱っている時に慮って寄り添おうとしてくれるこの言動はどう育てば出てくるのか。少なくとも自分の影響ではないな、とガラムは思う。心配を無下にせずキリに泣き言をこぼすような真似を、今はできる訳もないが。

「はは、キリ、お前も俺くらいの年齢としになれば、
 疲れが溜まって元気が出ない感じも分かるさ」
「……覚えとく」

 こうしてごまかされて優しさも何処で身に付けたものか。ラダが島を離れガラムから遠ざかったのは、ガラムにこんな優しさがなく、自分のことばかりだったからではないのか。俯いて目に入るサンダルの爪先に、上から落ちてきた小石が当たる。――上から?

「キリ!」

 名を呼び横抱きにして飛び退り、転がって着地の衝撃をいなす。つい数秒前には二人が歩を進めようとしていた辺りに飛び降りてきた人影が、着地するやいなや地面を蹴ってガラムに向かってくる。大振りの拳を外に流し、もう一方の腕で下から突き上げてきた一撃を避けると、男は一旦距離をとるべく後退のステップを踏んだ。ガラムの背には素早く立ち上がって身構えるキリの気配。相手がどう出るにしろ、竦んでしまっていないのはガラムとしては動きやすい。

「いきなりずいぶんなご挨拶どうも。
 ご用向きは? 仕入れの話ならありがたいけど?」

 勿論そんな訳はないだろうが、一応聞いてみる。島で採れる果物や花、加工したものなどを本島の店や会社に納めるのが生業のガラムには、こんな物騒な接触をされる謂れも心当たりもない。島を一歩出ればただの生徒でしかないキリも同様だろう。
 返答する気がないのか、小刻みにステップを踏む男は再びガラムに打ちかかる隙を窺っているようだ。露出した両腕を墨一色の刺青が取り巻き、筋肉を誇示するのに一役買っている。どうにも堅気には見えない。

「ガラム兄、何だアレ」
「分からん。言っとくが身に覚えはないぞ」
「そりゃそうだろうけど……っ!」

 キリとのやりとりに苛立ったのか、男が再び距離を詰め拳を繰り出してきた。素早く左右に分かれ一撃を避ける。学校の様子は知らないが、少なくともガラムの認識ではキリは対人格闘の経験などない。カナンが面白がってけしかけた島の動物を相手に避けたり掴みかかったり、の蓄積が今はまだ通用しているとしても、男がガラムの動きを封じる目的でキリを人質に取ろうとしたら。それに、難を逃れるにはキリには見せたくない、も必要になる。ガラムは方針を決め、矢継ぎ早襲い来る拳を弾きながらキリに指示を飛ばした。

「キリ! 先に一人でラダんとこ行け!」
「俺一人で行って怪しまれないか!?」
「目で分かるだろ!」
「! そうだった、じゃそうする!」

 言うなり低く身を落とし、ガラムとの応酬に集中している男の足元をすり抜けようと駆け出したキリを、目で見ていない雑な狙いながら男の蹴りが襲う。間一髪避け切ったキリにガラムは一か八かで叫んだ。

「壁蹴って、上から跳んでけ!」

 蹴りを避けての後ろ跳びから脚を入れ替えての跳躍、僅かな隙間で込んで建っている建築物の間を縫い、キリは一番近くに立っていた雑居ビルの屋上まで辿り着いた。勢いを失わないうちに助走、飛び出して、通り向かいの建物の屋根に着地。「これでいい?」とばかり笑顔で見下ろすキリに早く行け、と手で合図を送りながら、ガラムはタイミングを計るため頭の中で数を数えだす。キリが背を向け、ここでの音も耳に入らないくらいに遠ざかるまであと3、2、1。

「っざってぇなコラァッ!!」

 このところの憂さ晴らし、とばかり怒鳴り声を上げ、性懲りもなく繰り出してきた拳を蹴上げる。鼻白んだ鼻先にわざと当てない拳を掠め、ぐらついた身体に腹、胸、そして旋回の勢いを乗せ側頭部への三連撃、蹴りを食らわせた。多少過剰防衛だとしても、キリの保護者という立場を考慮すれば文句を言われる筋合いはない。
 男は倒れ伏し、丸まって呻いている。この様子なら意識に問題はないだろう、とガラムは判断し、ラダの家へと再び足を向けた。

「キミ、強いねぇ!
 果物なんか売ってないで、その腕を売れば?」

 唐突な拍手と軽薄なかすれ声。いつからそこにいたのか、あまりいい趣味とは言えない柄物を不思議に着こなした中年の男がやんわりとガラムの前に立ちはだかっていた。

◇◇◇◇◇

「……ええと、今のご覧に……?」

 見覚えのない顔、だとは思うが自信はない。ガラムの商売を知っているのだろう発言から用心して、愛想笑いで状況を確認する。男はガラムの愛想笑いを映したかのように更に口角を引き上げ、拍手を止めて懐を探りつつ答えた。

「一緒にいた少年が跳び去ってった辺りからね。
 彼もスゴイなぁ……島の人ってみんなああなの?」

 キリも見られている、島から来たことも知られている。一気に緊張を高め、どうとでも動けるような姿勢を取り直す。懐に入った手が何を握って出てくるか、硬く光を弾く金属が覗いたその時は、と身構えるガラムを嗤うように出てきたのは派手な原色のパッケージ。輸入物らしく見慣れない煙草の箱だった。

「悪いね、一本喫っていい?」
「いえ、俺はもう失礼しますんでどうぞご自由に」
「まあまあまあ、この一本分くらい付き合ってよ。
 せっかくのご縁じゃない」

 やはり明確な意図を持ってガラムを足止めするつもりのようだ。一方的にこちらの情報を把握しているらしい様子を思わせぶりにちらつかせ脅しをかけておいてご縁もないものだが、キリを追わせる訳にはいかない。ガラムは歩き出そうとしていた足を止め、留まる構えを作ってみせた。

「ふふ、警戒してるね、ごめんねぇ。
 ラダがずいぶんご執心のガラム君、
 一度会ってみたかっただけなんだよ」
「……ラダの、関係者でいらっしゃる?」
「関係者、ねぇ……。まあ、そうかな。
 この間はキミらの電話を邪魔しちゃって悪かったよ」

 あの時、電話の向こうでラダの隣に寝ていた……?

 初めてまともに男の顔を注視する。これが、ラダの恋人。隣に寝て、手を伸ばすことを許されている男。ガラムの視線を受けて男は目を細め煙草を深く吸い込んだ。

「……こちらこそ、不躾な電話でお邪魔して申し訳ない。
 俺は、ラダとは同じ島の生まれってだけで、
 今はたまに様子見で会うだけの……」
「アハハ! ガラム君、キミ、カワイイねぇ!
 ラダが必死でボクに知られないようにしてたのも
 よく分かるよ」

 からかうような笑い声とともに煙草の煙を吹きかけられ、ガラムは不意打ちに少し咳き込んだ。カワイイ? 醜く嫉妬で動揺していることを必死で隠して、誤解に弁明する有様が滑稽だ、と揶揄しているのだろうか。奇妙に甘い匂いの煙にまかれ、ガラムは返す言葉が見つからない。

「満月の夜、島に人が渡らないよう
 仕切ってほしいんだろ?
 ラダから見返りはもらってるけど、
 ガラム君に貸しにしたほうが面白そうだ」
「! 貴方が、ラダが言ってた伝手……」
「おや、お聞き及びとは光栄だね。
 で、どうする? キミに貸しってことなら
 文字通り人っ子ひとり渡らせやしないけど」
「……ラダに、受け取った見返りを返してくれるなら」
「! ええ? いや、ハハハッ!!」

 唐突に爆笑し、挙げ句喫っていた煙草の煙にむせる男を前にガラムは困惑した。今のやりとりの何処に、そんなに可笑しいところがあったと言うのか。訝しく首を傾げながら苦し気な咳が止まらない男を放っておくのもまずいか、と支えて背中をさする。

「あの、大丈夫ですか……?」
「あ~……うん、なんか、
 この奇跡の初心うぶ具合は
 このまま楽しむほうがいいなぁ……」
「は?」
「もうちょっと背中さすってくれたら、
 貸しはそれでチャラってことでいいよ。
 ラダには返しようがないんだけど……
 キミにちょっとサービスしてあげる」

 一人で納得し話を進める男についていけず、ガラムはただ背中をさすり続けた。考えてみれば、恋人同士の交渉ごとに首を突っ込んで受け取った見返りを返せ、とは僭越至極。ガラムのあまりの弁えのなさに笑うしかない、との男の爆笑だったのか。堂々巡りで考え込むガラムの肩にいつの間にか男の手が回され、耳元で囁かれる。

「ラダはね、ベッドで我を忘れると
 ボクのこと「ガラム」って呼んじゃうんだよね。
 絶対に認めないんだけどさぁ」
「な……っ、嘘だ!
 あいつは恋人にそんな不誠実な奴じゃ……」
「やっぱり誤解されちゃってるねぇ。
 ボクとラダはそんなんじゃないし、
 もうちょっかいはかけませんよ」

 キミに嫌われたくないからね。
 お手上げ、降参の姿勢をとりながら男はガラムを解放した。キミ……俺に嫌われることがこの男にとって何の意味があるのか。ガラムはますます困惑し、慌てて言い募る。

「俺は、本当にラダとは疎遠になっていて、
 ひと月に一度会えるかどうかみたいな付き合いです。
 恋人の貴方を差し置いて名前を呼ばれるような、
 そんな関係じゃないんだ」
「そこまでばっさり言われるのは、
 ラダが可哀想になってくるなぁ……。
 今から会うんでしょ?
 ちょっとボクの話を出してみてよ、
 悪いようにはならないと思うんだよね」

 男は苦笑しながらそう言い、短くなった煙草を落として踏みつけた。煙草のポイ捨ては確か何かの条例違反だったと思うが、これまでの言葉を信じるならばこの街は結局この男のもの、『表』の条例などで縛れるような存在ではないのだろう。

「ラダは、貴方の恋人ではない、んですか」
「そうだよ。
 まあこう言ったら言ったで角が立つけど……
 割り切ったカラダのお付き合いってだけ。
 心はきっとずっとキミに在るんだろうさ」

 肩をすくめて男は言う。そんな筈はない、と、もしそうなら、ラダが今も俺に心を傾けているとしたら、の間でガラムは激しく揺れてしまう。口を覆って言葉を失くしている様をひと渡り舐めるように眺め、男は軽くガラムの肩を叩いた。

「それじゃ、満月の夜は任せて。
 ラダと上手くいったらねぇ、
 いつかスる時ボクも混ぜてくれたら嬉しいなぁ」

 飄々と、とでも言うのか、男は力の抜けた様子で歩き出し、背中を眺めるガラムに見えるよう手を振ってみせた。つまりラダの家への通行を許可した、ということか。ガラムは我に返り走り出す。キリが無事着けたか、ラダに会えたか。そしてガラム自身も今すぐラダに会いたい。逸る気持ちが足の回転数を上げていく。重くのしかかっていた憂鬱は何処かへ消えていた。