「壁蹴って、上から跳んでけ！」
ガラムの声でキリは瞬時に踏み切った。跳び上がった空中で一回転、次の着地点を確認する。二つの壁の隙間を順番に蹴って上へと身体を運び、柵を飛び越えて屋上へ。降り立った脚を助走に切り替え、眼下に広がる通り向かいの屋根目指して更に跳ぶ。カナンの言うことしか聞かない鳥の邪魔や、降り立った拍子に折れる木の枝、滑る石。そんな障害のない街の建造物はキリの移動の助けでしかなかった。自分のことをよく分かって、信じてくれるガラムを着地した屋根から見下ろし笑ってみせる。正体不明の襲撃者をさばく片手間で移動を急かされ、キリは背を向け次の着地点へ跳んだ。
「あと路地を3つ通り越して、角のビルの4階！」
ガラムが口にしていた目的地への道順を復唱する。できればガラムが間に立って紹介、という段階を踏んでほしかったがそうも言っていられない。キリのほうに追手なり新しい襲撃者なりが向かってこないとも限らないのだ。とにかく早くラダの家に着いて、ひどい初対面で申し訳ないが匿ってもらう、現状最善に最短で辿り着く必要がある。
心の中で謝りながら路地をまたがって渡されている洗濯ロープを掴む。取り込み忘れていたのだろうシャツを手のひら保護に一気に滑って対面へ、再び壁を蹴り上り大きく跳び上がる。音が消えたような滞空時間、きらきらと灯りだす街の光と残照をわずかに反射する海、そして遠く小さく見えるカナンの待つ島を目で捉え、キリは奥歯を噛みしめた。不測の事態が起きたからといって手ぶらでは帰れない。かつて聖獣を務め、その後島を離れるに至ったラダにキリは聞いておきたいことがあった。ラダのほうも何かを伝えてくれるつもりなら、それはきっと絶対に聞き逃してはいけないことだ。
「あれか！」
角に建っているビル、5階建て。しかし1つの階に複数の部屋がある。4階のどの部屋だ！？
「君、キリ君か！？」
外階段の1階と2階の間から声が飛ぶ。視界の端で男性の姿を捉えて「そうです！」と答え、キリは一旦隣の屋根に着地した。
「済まない、すぐ戻る！ 4階の真ん中だ。
窓から入ってくれ！」
「はい！」
建物全体共通で窓には転落防止だろう柵が取り付けられている。植木鉢などを置き塞いでしまっている住人もいる中、4階の真ん中、ラダは特に手を加えず住んでいるようだ。キリは隣の屋根から5階の端を経てラダの部屋の柵へ跳び移る。なるべく衝撃は殺したつもりだが、後で柵が壊れてしまったら……今度は謝るために、ガラムに連れてきてもらおう。と、目の前で勢いよく窓が開く。
「遠路を来てもらって、こんな迎え方済まない。
聞いているだろうが私はラダ、君の前の聖獣だ」
「いえ、俺こそこんなで……。
俺はキリ、聖獣に選ばれました」
さあ、他人目につかないうちに入って、と促され、初めてここまでの道中誰かに目撃されていた可能性に思い至った。まずいはまずいが仕方ない。ひとまずキリに向けての追撃を受けることなく目的地に辿り着けたことを良しとするしかないだろう。
◇◇◇◇◇
「さて、初めに聞いておこう。
君は何時までここに居られる？」
冷蔵庫からペットボトルを取り出しながらラダが尋ねた。座ったキリの前、テーブルに置き手振りで勧めてくれるそれ、人工的な甘みの強い茶を注視する。恐らくは年若いキリのためわざわざ用意してくれたのだろうその飲料を、しかしキリは些か苦手に思っていた。島育ちには味が強すぎるのだ。
「ガラム兄とは7時半に迎えにきてもらう、と
話してました。だけど……」
「窓から訪ねてくるような非常事態で
前提はもう崩れている、と」
わかった、私の話は手短に済ませよう、と言いつつラダは置いたペットボトルを取り上げ違うもの、飲料水と取り換えてくれた。キリは思わず勢いよく見上げ、目を合わせてしまう。
「ん？ 甘い茶は苦手だったかと思ったが……」
「はい、ほんとはそうです。済みません」
「君が飲まなくてもガラムが喜んで飲むさ。
まず水分補給しなさい。
そもそもはじめから水にすればよかったな」
慣れていない者には鋭すぎる、と言われる目つきでまともに目を合わせても動じず、笑いかけてくれるラダを、キリはもうすっかり信じて、話をしたい気になっていた。勧められるままひとしきり水を飲み、背筋を正す。時間までになるべく多くのことをラダから受け取りたい。
「ガラムから、何か悩んでいる、と聞いている。
私で足りることなら何でも答えよう」
ラダもキリの向かいに腰掛け、首を傾けて傾聴の構えだ。キリの相談のほうを優先してくれるその様子にキリは話の口火を切った。
「ラダさんは聖獣になった時
自分が獣になってしまう……
意識を『喰われる』感じになりませんでしたか」
「意識を『喰われる』……
理性を失う、と言い換えられるような？」
「完全に失ってしまうんじゃなくて、
一部だけ不自由に残ってる感じです。
暴れそうなのが分かってるのに止められない」
「……私の場合は、我を忘れていた、と思う」
長くすらりとした指をテーブルの上で組み、ラダは俯いて言った。辛い記憶ならば無理に語ることはない、そう伝えたいが、まだ何処まで踏み込んでいいものかキリは判断がつかない。
「……儀式の意味、趣旨、
そういったものを聞かされたかな」
「はい。カナン……魔女の、も
『陰だか陽だか調和がどうとかが
平たいいい具合になる』と説明してくれました」
「かなり大胆な解釈だな……」
「たぶん、俺にだけ伝わればいいと考えての
説明なんだと思います。……間違ってますか？」
「いや、的確だ。
そして君が今私に聞いたことと、
私が恐れて君に伝えたかったことは重なっている」
ラダは俯いていた顔を上げ、キリの目をまっすぐ見た。見慣れた島の人々よりだいぶ明るい肌の色、ラクダの毛の色に似た髪に同系色の目。カナンを見る時のように高まった気持ちではないのに、キリは目の前のラダに対して「美しい」という言葉を頭に浮かべる。
「私も君も、儀式を繰り返し行えはしないからな。
検証しようのない憶測でしかないが……
聖獣の暴走度合いは、
魔女との差で決まる可能性がある」
「差、ですか？」
「君は、君の魔女……カナン君、だったか、と
多くの時間を共に過ごし、育ってきたのでは？」
「はい、そうです。
俺たちはふたりとも親といる時間が少なかったので
まとめてガラム兄に育ててもらったようなものです」
キリはガラムの顔を思い浮かべながら、ラダに少しでも良い印象を伝えられないかと言葉を繋ぐ。ラダが島から去った後のガラムについて知ってほしい、そして今のガラムとまた仲良くなってほしい。余計なお世話だろうがそう思うのだ。
「……ガラムらしいな。
私は、この姿、生まれをひがんで
島で孤立しようとしていたんだ」
ガラムだけは手を伸ばし続けてくれたけれど。
目を閉じ、痛みと懐かしさを同じだけ混ぜたような顔でラダは続ける。
「君達ほど常に一緒だったとは言えない。
つまり選定の儀の時点で、ふたりの気――陰と陽の
落差が大きかったのでは、と推測する」
「差が大きいと、陽が陰に
急激に流れ込みたがる……？」
ラダは軽く目を瞠った後大きく頷いた。キリの理解は合っていると考えていいのだろう。
「君達には要らない心配かもしれないが……
儀式の夜、魔女を手酷く抱くような事態を
避けたいなら、なるべく多くの時間を
共に過ごすことだ」
「はい」
「本当は、あんな儀式など迷信だ、と否定したい。
何の意味があるのか、君達や私達が
身を捧げて……魔女の身体を貪って、
それであの島が保たれると言うなら――」
「俺は！……たぶん、カナンも。
ずっと儀式を楽しみに育ってました。
今聖獣の暴走について教えてもらって
すごく安心できた。
満月が待ち遠しいと思えるんです」
ラダが案じてくれたこと、話してくれたことに感謝している。そしてガラムはラダほど儀式を否定しておらず、キリとカナンに教えを伝えてくれている。言葉の端々から感じられるラダの後悔、儀式に対して、かつて魔女だったガラムに対しての罪悪感を少しでも軽くしたくてキリは言い募る。
「ガラム兄は儀式まで挿入れたらだめ、って
教えてくれたのでそれは守って、
儀式の後は役割を入れ替えてしてみよう、って
カナンは魔女の張形、俺は指で後ろの準備を」
「キリ君！」
強めに名前を呼ばれ、制止される。驚いてラダを見ると、形のいい手が顔を覆い、指の隙間から垣間見える肌は薄赤く染まっていた。この反応は不思議にガラムと似ている。ということはつまり、自分はまた口にするべきではないことを、とキリは気付いて「ごめんなさい、変なこと言いましたか」と謝った。
「いや、その……変、というか、
私が聞いていいことではない、というか……
君に儀式での暴走の心配はなさそうだ、
とは分かった」
「ガラム兄は……
他の色んなことと同じように儀式についても
嫌だとか、辛いとかじゃなく教えてくれます。
酷く抱かれた、と思っては……」
「私は、魔女が張形を使っての
準備を強いられるなんて知らなかった。
知ろうともしていなかった」
ラダは顔を両手で覆い呻いた。キリはおろおろと立ったり座ったりを繰り返し、なす術なく再び座り込む。
「言い訳だ。
儀式がなくても、聖獣に選ばれなくても
私はガラムにひどいことしかしていない。
君のように、カナン君のように
ガラムに優しくできず、挙げ句島から逃げて……」
「そんな……」
ラダもガラムも、お互いを嫌って離れたのではない、と確信する。今のラダの言葉をガラムが聞くことができたなら、キリは焦れる。壁にかかった時計はまだ7時半を指してはいないが、謎の襲撃の後だ。ガラムは船に戻ったりせず直接ラダの家に来ればいいのに。
ドンドンドンッ！
唐突に、相当な勢いで入り口の扉が叩かれる。キリもラダも、驚きで椅子から跳ね立ち上がり、顔を見合わせた。ラダは洗濯ものが垣間見える奥まった空間を目顔で差し、キリに身を隠すよう指示する。頷きキリが潜んだことを確認してから、ラダは足音を殺して扉に近づいていった。入り口脇に立ててあった傘を手に取り覗き穴に顔を近づける。
「ラダ！！」
ドアの外から切実な響きで名を呼ぶガラムの声。ラダは傘を手放し慌てて鍵を開ける。ガラムなら隠れている必要はないだろう、と一歩踏み出したキリは、即座に舞い戻る羽目になった。
「ガラム！ 無事か……、っ！？」
扉を開けるなりラダの言葉を遮るようにガラムが飛び込んで来、ラダを抱きすくめた。遠慮なしに腕を回し、ラダの頭を肩に押しつけ離すまいとする様子にラダもおずおずとガラムの背に手を伸ばす。背後で扉が閉まる音がしても、時が止まったようにふたりは互いを抱きしめていた。
（……カナンやガラム兄、ラダさんも、
俺が変なことを言った時
こんな気持ちだったんだろうか……）
見てはいけない、と目を逸らすものの、耳に届く微かな衣擦れや、走ってきたせいだろうガラムの荒い息遣いがかえってキリを混乱させる。このまま黙っていて何か、何かが始まってしまったら。焦りがキリに声を上げさせた。
「あの！ ごめん、ガラム兄！
俺先に船に戻ってようか！？」
「キッ、やっ、無事着いて……っ、
あたっ！！」
「キリ君っ！ さっきの今で
君一人で船へなんて、だめに決まっているだろう！」
慌てて飛び離れた拍子にガラムは傘が足の上に倒れ、ラダは目測を誤って柱にぶつかる。自分の声かけが引き起したどたばたにキリは申し訳なさでいっぱいだ。
「あ～……その、キリ。
相談、と、ラダの話は終わったか？」
「うん。もう……俺は、俺たちは大丈夫。
そう思えるように、話してもらった」
「彼らは何の心配も要らない。
私とは違う、杞憂だったよ」
ガラムの問いに、キリはしっかりと、ラダは苦く笑って答える。それを見て取り、ガラムは少し唇を噛み、何かを決意したようにラダを呼んだ。
「ラダ。
……俺にも、少し時間をくれないか。
キリのお供でも、定期連絡なんかでもなく
お前と話がしたい」
もちろん今日じゃなくていい。お前の都合がつくまで待ってる。
言葉を繋ぐガラムが次第に俯いていくのを、キリは拳を握って見守る。ラダだってきっと嫌じゃない。断るはずがない。なのに何故そんなに俯いてしまうのか。
「……満月の夜、泊まりに来るか」
「……え……？」
「島に人が渡らないよう、
君も街で見回りでもしたらどうだ」
顔を背けてぼそぼそとつぶやくラダの耳が染まっていることに気付いてしまったキリは、せめて、とふたりの間をすり抜け扉を開けて外に出た。
街のぬるい風にはこの短時間で食傷気味だ。海に冷やされて島に届く潮風が恋しくなって、キリは街の灯の向こうの島に目を向けた。カナンに今日のことを話せるのは夜のうちか明日になってからか。なるべく今のこの、そわそわと落ち着かない、だけど幸せな予感が含まれた気持ちをそのまま伝えたい。キリは目を閉じ、ガラムを待つ間ふさわしい言葉を探してみることにした。