05.開かない扉

 流石に、この状態のカナンに勉強を強いることはできない。ガラムはそう判断し「釣りでも行くか?」と声をかけた。顔を覆う前髪の隙間から恨みがましい目がのぞく。常にはない虹彩の色、まるで歓楽街のネオンのようなどぎついピンクがぎらりと光を反射した。

「釣り行ったって、おれ今魚食えないじゃん。
 こういう時だけ甘やかしてくるの、
 なんかうさんくさいっていうかさぁ」

 ガラム兄に甘やかされてもしょうがないんだよなぁ……。
 呟いてまた髪の渦の中顔を伏せ、膝を抱えてしまう。15年の付き合いの中で見たことがない落ち込みようのカナンに、ガラムは何と言ったらいいのかわからない。

 森の奥での選定の儀で、キリが聖獣、カナンが魔女と決まった後からキリの様子がおかしくなった。役割が定まった時点から儀式当日満月の夜まで、聖獣と魔女は仮宮で寝食を共にするのが本来の習わしである。しかしキリは夜明けの沐浴こそ無言で顔を出すものの、後はひとりで暮らしている自宅に籠りきりだ。休みの届を出してしまって、更にはカナン同様本来の目の色からかけ離れた虹彩、聖獣の水色があからさまな今、学校に通う訳にもいかないキリはこの数日何をしているのだろうか。

「なあ、ガラム兄」
「ん?」
「キリはさ……
 おれと儀式は無理って思ったのかなぁ」
「いやぁ……無理なら無理で
 もっと早く態度に出ただろうからなぁ……。
 キリはそういうの隠しておける奴じゃないだろ」
「一緒に寝て、起きた時に口くっつけて、
 口ん中舐め合って……夜はお互いちんこ擦って、
 気持ちいいのはおれだけじゃないと思ってた」
「ちょ……っ、待て待て待てカナン!」

 涙ぐみながらキリとの経験を語るカナンに声を荒らげたくはないが、養い親に近い立場のガラムとしてはふたりの性的な営みを赤裸々に聞かされて平静ではいられない。そもそもこんなにあけすけに語る事では、とたしなめようと口を開き、ガラムは自分が教えてこなかったせいだな、と自省した。

「……あのな、カナン。
 俺がちゃんとしなかったのが悪いんだけどよ、
 そういう……その、気持ちよくなることは
 あんまり他人にべらべらしゃべるもんじゃなくて」
「? だってガラム兄は他人じゃないだろ?」
「いや……違うんだ。他人……第三者……
 基本、キリとだけ話せってこと!」

 カナンが本来持つべき羞恥心を引き取ったかのように顔が熱くなってしまう。仕事上の付き合いで猥談が持ち上がった時などはなるべく上手くごまかしてはいるが、ガラムの性的な経験値はたいそう貧弱、耐性がないのだ。加えて赤ん坊の頃からよく知っているふたりの秘め事を心の準備もなしに聞かされては、きっと今自分の顔、耳や首までもが赤く染まっているだろうなとガラムは思う。

「ガラム兄、なんか恥ずかしいのか?」
「そりゃ恥ずかしいよ!
 お前達のシモ関係なんか平気な顔で聞けねえよ」
「そういうもんか~……。
 ごめん、キリに毒されてたかも。
 あいつ、恥ずかしいってこと
 あんまりわかってないんだよ」
「……お前も、意外と苦労してたんだな」
「……でも、もうキリは、
 恥ずかしいことをおれとしてくれない」

 普段ふたりが揃っているときは、カナンのほうが主張が強く動じない、キリのほうが聞き分けがよく配慮がある分繊細、という認識があり、それだけにカナンとは遠慮のないやりとり、言い合いになりがちだ。常にない、泣いて沈んでいるカナンにかける言葉が見つからないガラムは、俯いたままのカナンを覆いかぶさるように抱きしめた。

「お前ら、今まで言葉を使わなすぎたんじゃないか?」
「だって、顔見れば分かる、分かってたから」
「でも今はそうじゃない。
 なら、いつもと違うこと……話して、
 分かろうとしてみたらいいんじゃないか」
「それでキリが、おれのこと
 もう要らないって言ったら、どうしたらいいんだよ」

 どうしたらいいか、それが見えているなら自分もラダと決別することはなかった。慣れた痛みが胸に走るのをやり過ごし、カナンを抱え直してガラムは言葉を尽くす。羨ましい、と、いっそ憧れにも似た気持ちで見守っていたふたりがこのまますれ違ってしまうのはしのびない。

 キリの様子がおかしくなったのは選定の儀、聖獣と魔女の役割が決まった後だった、と考えると、カナンが恐れるような、カナン自身を嫌がる、嫌っている等ということは有り得ない。聖獣と魔女の候補者にしか見えなかった洞窟でのこと、聖獣に選ばれた事自体、何かでキリも苦しみそれをカナンに見せたくない、と家に籠っているのではないか。
 無理矢理こじ開けて、連れ出して、乱暴に解決しようとするのはもってのほかだ。だがキリのほうから扉を開ける気になるように、扉の外で腕を広げて待っている、と伝え続けること、どう変わるとしても再び気持ちを繋げられるように手を伸ばし続けること。勝手な思いだが、自分が貫けなかった行いをガラムはカナンに諦めてほしくはなかった。

「キリもそろそろ飲み食いに困ってるんじゃないか?
 野菜、果物、色々持ってさ、
 『キーリーくん、あーけーてー』だよ」
「救援物資を届ける、ってのは必要だけど
 おれはそんなばかみたいな声はかけないからな」

 腕の中でもぞもぞと動きを見せてから、カナンは顔を上げガラムを睨み上げてそう言った。涙の気配は残るものの、普段のきかん気が戻ってきたように見える。

「救援物資たぁずいぶん
 難しい言い回しを覚えたじゃないか。
 誰が教えたのかな? ん?」
「うわ、うっざ……
 ガラム兄こそ、どこでそんな
 気持ち悪い言い方覚えてきたんだよ。
 はいはい、ガラム兄に教えてもらった勉強で
 救援物資って覚えましたぁ~」

 憎たらしい口振りで頭突きを繰り出してくるカナンを最後に一度、強く抱きしめてガラムは勢いよく立ち上がった。間を置かず倣い、更に頭突きを重ねるカナンの髪を乱暴にかき混ぜて顔を覗き込む。停滞の澱んだ悲しみはもう見つからなかった。

◇◇◇◇◇

「キーリーくん、あーけーてー」
「うえ、それまじでやるんだ……」

 キリの家の前、固く閉ざされた扉も窓も相変わらずだ。ガラムはカナンが背負ってきた分の食料を引き受け、背中を押して促す。

「ほら、行ってこい。
 流石に俺に聞かれたくないだろ?」
「聞かれたくはないけど、
 最初だけは居てよ」

 おれだけじゃ、出てきてくれなかったから。
 そう言うカナンの顔つきは、いつもの小癪な笑いが浮かびいきいきとしている。ガラムを囮にキリを会話に引っ張り込もうという算段か。膝を抱えてしょげている状態からは出てこない発想に、カナンのほうはもう大丈夫だとガラムは安心する。

「よし、なんとかキリの顔見るところまでは
 俺も付き合うぜ」
「考えてみたらここんとこ、
 キリの顔見てしゃべってなかった。
 顔見れば分かる、って、見てなかったんだよ」

 目が覚めたようにまっすぐキリの家を眺め、カナンは言う。生意気にも手振りでガラムを動かそうとするのは気に入らないが、沈んでいるよりはずっといい。

「キリ、なあ、聞こえてるか?
 食料を届けに来たんだ。……カナンも一緒だよ」
「あっ! おい、ガラム兄!
 なんで言っちゃうんだよ!」
「騙して連れ出したんじゃ意味がない。
 キリが、自分でカナンに向き合うんじゃなきゃ。
 そうだろ?」

 扉の向こうにキリの気配を感じる。カナンも一緒、と聞いても、聞いたからこそ、息をひそめて外の様子を窺うほどなら。

「キリ。カナンに顔を見せて、話をしてやってくれ。
 俺は、お前達のどっちも大事だよ。
 泣いて沈んでいるところは見たくない」

 ひとりになろうとしないでくれ。ひとりで抱え込んで、離れていかないでくれ。
 かつて自分がラダに言えなかったことを、カナンにもまた言わせないままにしないでくれ。
 軽く扉で拍子をとりながら、ガラムは思う。

「……ガラム兄。怖いんだ」
「キリ!? 怖いって、なんだよ!
 おれもいるし、ガラム兄だっているだろ。
 ひとりでいる方が怖いだろ!」

 扉の向こうで小さな、弱ったキリの声。久々に耳に届くそれは、泣いているのか頼りなく掠れていた。

「カナン。
 お前を、傷つけたくない。ひどいことをしたくない。
 ……獣に、なりたくないんだ」

 扉をどん、と叩く音と共にキリが心情を吐露する。獣に、とは、聖獣の役割を思っての言葉だろうか。

「……はあぁ? 何言ってんの?」
「……っ! おい、カナン!?」

 止める間もなかった。キリの切々とした訴えに気をとられていたガラムを他所に、カナンはたっぷりの助走を取りキリの家の木製の扉に強烈な蹴りの一撃を加えた。中で「うわっ!?」というキリの驚く声が上がる。

「こら! ちょ、何してんだカナン!
 お前キリんぶっこわす気か!?」
「このまま引きこもる気ならそうしてやるよ!!
 キリ! このばか!!
 もう傷ついてるし、おまえはひどいことしたからな!」

 更なる攻撃を加えようと脚を振り上げたカナンを慌てて羽交い絞めにし、ガラムはまだ破壊されていない家の中のキリにすがる。

「キリ! 先にカナンこっちが獣になっちまう!」

 時間をかけて、穏やかに穏便に説得し会話を成立させるはずだったのにどうしてこうなった。暴れるカナンを取り抑えながらガラムは必死にキリへと呼びかける。悪いがもうキリの繊細さに配慮している余裕はない。いつの間にか力も強くなり、暴れ方にも遠慮がないカナンをあと何分抑えていられるかも予測できない。

「カナン! ガラム兄!」

 勢いよく開いた扉に跳ね飛ばされて、カナンを抱えたままガラムは地面に転がった。あまり閉まっているところを見ないので忘れていたが、キリ宅の扉は外開きだったのだ。倒れたガラムの腕から素早く抜け出し、カナンはキリへ向かっていく。まさか殴りかかる気じゃないだろうな!?

「キリ!!」

 カナンは勢いを殺すこともなくキリに飛びつき、押し倒し、唇にむしゃぶりついた。目を白黒させていたキリもカナンの熱意に流されて、いつしかカナンの首に腕を回し深い口づけに夢中になっている。

 これはもう、若いふたりにおまかせ、ってやつだな……。
 ガラムは足音を立てないようにその場を離れ、散逸した食料を集めてキリの家の軒下に置き帰路に就いた。あの様子なら、もう心配は要らないだろう。

◇◇◇◇◇

『そうか。聖獣と魔女が決まったか』
「うん。まあ、決まった後今日まで、
 ちょっと色々あったんだけど……」
『儀式を嫌がったり、か?』
「あー……いや、うん。
 直接聞いて、相談に乗ってやってくれ。
 聖獣のほうが、なんか悩んでたんだ」

 キリの蟠りが一応の解決を見たという判断で、ガラムはラダに連絡を取った。開口一番「時間を考えろ、私は昼間は寝ているんだ」と文句をぶつけられたが、その後は穏やかなものだ。

『共に暮らしている君に話せない悩みを、
 初対面の私が相談に乗れるとは思えないが』
「いや、わからんけど、聖獣ならではの、とか」
『……まあ、会った時聖獣の、キリ君、か。
 彼が話したいようだったらやぶさかではない』

 相変わらず固い物言い、言い回しだ、と、ガラムは少し可笑しくなった。

「じゃあ、そういうことで
 キリを連れてお前んとこ行くけど。
 いつなら大丈夫?」
『……っ、あっ、や、めてください……っ!』

 電話の向こうで、衣擦れの音、ラダの、誰かを制止する吐息交じりの色を帯びた声。ガラムは息を呑み、スマートフォンを取り落とした。

 昼間は寝てる? ひとり、じゃなく……?

 俺は情事に水を差した間抜けな幼馴染、ってことか。のろのろと、落とした機械を拾い上げ通話に復帰する。

『ガラム! 違う、これは……』
「ごめん、急に電話して悪かった。
 また改めて……」
『水曜日! 水曜日なら店も休みで、
 何時でも大丈夫だから! ……待ってる、から』

 珍しく、どこか必死にも聞こえる声でラダはそう言い、通信を絶った。手の中の暗く落ちた画面を、そこに映る自分の顔を眺めガラムはため息をつく。欲張り過ぎだ。連絡と称して会話ができて、顔を合わせる約束もして、充分じゃないか。
 充分だと、自分に言い聞かせる。手を伸ばすのが許されていたのはとうに昔のこと。その時間を無為に過ぎ去らせてしまったガラムには、もうラダに向けて何かを投げかけ、望む資格などないのだ。