15.島を背にして

 そう言えばカナンが長い髪をまとめているところはほとんど見たことがなかった。後ろから露わになっているうなじを眺めながらキリは思う。

 儀式を無事済ませたからなのか、今まではらしくない恐れを見せ島の外に出たがらなかったカナンがキリと共に学校に通うと申し出た。長老やヒジョはもちろん大いに喜び、半端な時期ではあったが手配手続き諸々を迅速に済ませた。キリも今より多くの時間をカナンと過ごせるようになる、と浮かれていたのだが、キリと、そしてガラムには大きな障壁が立ちはだかった。カナンに現状の学習習熟度を把握するための試験が課せられることになったのだ。

「試験……カナン、お前……
 時間中おとなしく座ってられるか……?」
「バカにすんなよガラム兄!
 ……って言いたいとこだけど、
 どう、かな~……」
「試験の時間も耐えられないようじゃ授業は……」
「キリ、それは逆に大丈夫だ。
 授業中は大勢の中に紛れて寝てりゃいいし
 そういうことなら俺も教えてやれる」

 ガラムの学生時代がおおよそ想像できる発言は不安要素しかない。とりあえずの見切り発車でカナンは詰め込み勉強を、キリは試験を回避し課題の提出で切り抜けられないか、そうした前例はないかを調べ回り、長老に材料集めに奔走する毎日になっている。

「キリ、これは?
 『似た発音のものを選べ』って」
「……ラダさんので探そう。
 俺は語学得意じゃない」

 うなじを凝視していたキリに感づいたのか、というタイミングで振り向いたカナンは真面目な質問を投げてきたのみ。キリは内心邪な思いを含んだ目を向けていたことを謝りながら、より良い提案を試みる。
 ガラムはガラムで不真面目な学生の心得を説くばかりでなくカナンの就学実現へ向けて手を講じていた。職業柄外国語の、特に会話に長けているというラダに頼んで、教科書や問題集を読み上げてもらった音声データを作って持ち帰ったのだ。キリもガラムもいない時の自習はくりかえしそれを聞き、真似て発音練習をしているカナンは「直に会う前に声でラダさんのこと覚えちまった」と感想を述べていた。発音それ自体を覚える学習方向にはいまいち繋がっていないのかもしれない。

「あー……じゃあ、それは昼間やるか。
 ひとりじゃできないことからやろうかな」
「ん、そうだな。
 でも俺がいなきゃできないことって
 あんまりないだろ」

 実地体験が頭にあるからだろう、カナンは生物の分野はキリより既に得意だ。数学は「商売の金勘定はしてるから」というガラムが一応担当ということになっているし、語学はひとりでやれる、となると……考え込んだキリにカナンは手を伸ばした。

「か、カナン……?」
「おまえとふたりの時じゃなきゃできないこと、
 最近全然してないじゃん……。
 ちょっとでいいからくっついてたい」

 確かに最近は勉強の都合、ガラムと三人でいることが多かった。ガラムを邪魔にする訳ではないが、以前は無頓着にしていたくっついたり触ったりは何となく三人の時には気まずいような気がして、このところのキリとカナンは儀式の前より少し物理的に距離がある状態だった。それをさびしく思っていたのが自分だけではなかった、とキリは嬉しくなる。

「ちょっとだけ、にしないとな……」
「へへ……うん」

 椅子を並べて座っていた状態からカナンが移動してきた。太腿をまたぐように乗り上げ、キリを見下ろす形で顔を両手で包んでそっと目を閉じ顔を寄せてくる。キリは舌を伸ばしてカナンの唇を舐めた。心得たように薄く開かれた口の中へ舌を滑らせてカナンの舌を誘い出す。

「んっ……、ふ、んん……」
「っ、は、あ……っ、んっ」

 キリは口づけを交わしながら気になっていたカナンのうなじをゆるりと撫でた。髪を探って辿り着くうなじの手触りとはまた違う、ひんやりとした皮膚と束ねて上げた髪の生え際が目新しく楽しい。

「ん、ふふ、キリこれ好き?
 なんかすげえ見てただろ」
「好き……好き、かもしれない。
 いつものも好きだけど、すぐ触れるし」
「触ってもいいけど、ふたりだけの時な。
 ヘンな気になってくる……」

 頬を微かに染めながら、カナンは束ねた髪の先を持ち上げて俯きキリにうなじをさらす。カナンの身体をより自分にもたれさせるように抱き寄せ、キリはそのうなじに唇を這わせた。音を立てて軽く吸い、唇だけで甘噛みを繰り返せばそのたび跳ねるカナンの身体が次第に熱くなってくるように感じる。

「あっ、あ、んっ……は、ぁ……っ」
「カナン、これ好きか?」

 先程カナンがしたのと同じ問いを、唇を付けたまま囁き返す。

「好き、気持ちいい……
 なんか、ぞわぞわ、ひやひやする」

 音で聞くとあまり良い感触には聞こえないが、潤んで熱を持ったような目を合わせて「今度、夜にして」とねだるところを見ると「気持ちいい」のほうを信じていいのだろう。
 今度、夜。いつになるだろう、今日はだめだろうか。身体を繋げて交わすところまででなくていい。カナンに触り、カナンに触られたい。

「キリ、あのさ……今日の、夜って」

 キリの内心が通じたかのようにカナンが起き直り、鼻がくっつく距離に迫って目を覗き込んでくる。今日の夜、触れあってもいいなら。期待を込めて、嬉しいと思っていることが伝わるように笑顔を作り、目を閉じる。
 その途端、破壊的な音と共に扉が開けられ、ガラムが飛び込んできた。

「カナン! 試験科目減らせるかもってよ!!」

 飛び上がったふたりは椅子ごと後ろに倒れ、床を転がりながらさりげなく距離をとった。

「? 何してんだお前達」

 不思議そうな顔のガラムには幸い何をしていたかは見えなかったらしい。キリはひとまず安心し、カナンに目配せしながら起き上がった。

「び……っくりしてんだよガラム兄!
 キリん家の扉壊す気か!?」
「悪い悪い、早く知らせたかったからな!
 試験自体は指導方針を決めなきゃいけないから
 やらない訳にはいかないけど、
 語学と数学くらいで済ませてくれそうって!」

 我が事のように手放しで喜ぶガラムに隠れて自分たちは。そう思うとキリは少し後ろめたくなり、ことさらに明るく話題に乗る。

「ガラム兄、なんでそんなに上手くいったんだ?
 俺はあんまり役に立てなかった」
「俺が上手くやったんじゃなくて長老が、な。
 でもキリ、お前は相当貢献したんだぞ」
「俺……?」

 ガラムはひっくり返った椅子を直しながら、笑み崩れるような顔で経緯を語る。

「キリが学校で信用あるから、
 そのずっと一緒に育った幼馴染ってことで
 まずたいがい良い感触だったみたいでな」
「それ、じいちゃんが?」
「ああ。
 島から通ってくる子どもの中では
 史上最高優等生だって校長先生が言ってたらしい」

 島の子どもで史上最高、と言われてしまうとガラムは、という話になってしまうのだが、気付いているのかいないのかガラムは嬉しそうに言い募る。

「キリ、お前、自分のことは全然言わないから。
 真面目にやってるとは思ってたけど
 すごかったんだな」
「……優等生なんて、言われたことない。
 試験の順位とか別に良くないし、
 カナンにちゃんと教えられるほどじゃないし」
「ばか、キリ、おまえが一緒に教えてくれるんでなきゃ
 おれがおとなしく座ってる訳ないだろ?」
「カナンはそこで開き直るなよ!
 ……キリは、俺のおかげだろぐらい言っとけ、な?」

 言いながらやわらかく肩を抱くガラムに、対抗するように全身で抱き着いてきたカナンに、キリは押しつぶされながら腹の奥から笑いの衝動を感じる。試しに声を出して笑ってみると、カナンもガラムを驚いたような顔を見せた後更にキリに密着してきた。どんどん可笑しくなってきて、キリはお返しのように二人に腕を回し締め上げる。三人してくんずほぐれつ訳もなく笑いが止まらず、ひとしきり騒いで息切れを起こして座り込んだ。

「……っはー……俺たち、何やってんだろうな……」
「……団欒……?」
「悪ふざけじゃねーの?」

 顔を見合わせてまた笑う。何、とも言えないこの時間が、キリはたまらなく大事だと感じる。色々なことが変わっていっても、変わらない気持ちがあれば大丈夫だ、と、そう確かに思えた。

◇◇◇◇◇

「カナン! せっかくきちんとしたんだ。
 汚したり濡らしたりするなよ!」
「ガラム兄の船がキレイなら心配ないだろ!」
「そこが不安だから言ってんだよ!」

 自分は普段気にもせず座っているが、とキリは腰を浮かせてズボンの尻辺りを確かめる。もうずいぶんくたびれた黒いズボンでは汚れがついてもどのみちあまり分からない。

「カナン、ハンカチ敷くか」
「要らねえよ! なんだそのお姫様扱い!」
「いや、このズボン、
 汚れると洗うの面倒だから」

 ガラムの船は商売の積み荷、果物や野菜で汚れている可能性がある。ハンカチひとつで防げるのなら、というキリの考えはカナンには受け入れられなかった。
 お姫様扱いをしている、そう思って見ているのではないが、今日のカナンのいでたちは確かに汚したりしてはいけないような雰囲気がある。キリと同じ服、何の変哲もない白い半袖のシャツと黒いズボンを身に付け、髪を束ねているだけなのに近寄りがたい気持ちになるのだ。キリは構わずどっかりと腰かけたカナンを盗み見る。

「なんだよ、キリ」
「……よく似合ってる。かっこいい、と思う」
「……んん、そう……?
 キリが言うなら、じゃあ我慢すっか」

 この格好、きゅうくつだし暑苦しいけどな。いつにない少し複雑な笑顔で言うカナンは、カナンなりに緊張しているのかもしれない。
 最終的にカナンの就学は、試験と面談、面談で課されるいくつかの課題の提出の後きりの良い月始めから、と落ち着いた。面談にはキリとガラムも呼ばれる予定だ。合格、不合格があるものではないが、できるだけカナンを良く印象付けたい。そう思うとキリもつられて緊張してくる。

「……なあ、キリ。おれ、さあ。
 キリにもっと……好きになってもらいたいから。
 だから島から出てみる気になったんだ」
「え?……何、カナン?
 悪い、もうちょっと大きい声で言ってくれ!」

 カナンが複雑な――少し寂しそう、とも言える笑顔を浮かべて語りかけた言葉は、船のモーター音に紛れて聞き取れない。キリは慌てて聞き返すが、カナンは笑みを深めるだけで言い直しはしなかった。

「キリ、カナン! もう着くぞ!
 やっぱり直接来るほうが断然早いな」
「ガラム兄! じゃあ毎日送り迎えしてくれ!」
「カナン! それは俺がもう怒られてる!
 不公平だから、って言われて、
 巡回船が来る島までになったんだ!」

 些細な説明も船の上では怒鳴り合いになってしまう。だがカナンとこの声を張り上げた会話をしている事実に、キリの中で次第に喜びが湧き上がってくる。これからは、毎日隣で。キリはガラムには見えないよう、そっとカナンの手を握った。軽く目を見開いたカナンもにやりと笑い握り返してくる。

「着いて、降りたらなぁ!
 カナンはあんまり喋らないでおけよ!
 黙ってればなんか訳アリのぼっちゃん
 の線で押し通せるからな!」
「ガラム兄!
 無理して嘘ついても、どうせバレるよ!」
「いや、キリ!
 おれ、訳アリのぼっちゃんはたぶんいける!
 おまえの真似すりゃいいんだよ!」

 叫んでカナンが腕に抱きついてきた。俺の真似? 喋らないでいる、というところが、か? 釈然としないキリとじゃれつくカナンを見てガラムが煽る。

「それだ!
 優等生のキリと二人揃って、
 寡黙でミステリアスな美少年路線だ!」
「よっしゃ……おれ、やってみる!
 島育ちだからってナメられてたまるか!」

 なんだか学校に行く目的がずれてきているような気もするが、カナンが元気そうならいい、のだろう。キリは腕に回されたカナンの手にそっと手を重ね、笑いかける。改めて、カナンが好きだと思う気持ちを伝えておきたかった。あまり上手くない言葉でも、表情でも、身体の動きでも。キリを受け取ってくれるカナンに心を捧げたいと、きっとこの先もずっと思っていくのだ。
(八重のジュプン咲くこの島で・完)

最終話までお読み頂き有難うございました!
島から街へ舞台を移し、大人組をメインにした続編を考え始めております。
(タイトルを変えて別の連載とする予定です)
この話を楽しんで頂けたようでしたら、
続編投稿の折にはよかったらまたお付き合い頂ければ嬉しいです。