「善爾、アンタねぇ……
新卒の子にそんな面倒かけてどうすんの?」
「うん……崎谷くんにはほんとに申し訳ない」
「一応はアンタが教育係とかなんでしょ?
介護されちゃってるじゃないの」
「だよねぇ……いくら『宮代さんの役に立ちたいんです』って
言ってくれてるからってあんまりだよね」
「えっ、その子はなんか徳を積む修業でもしてんの」
画面の中の姉の顔が、回線の都合ではなくフリーズしている。
崎谷くんはアウティング、偏見差別、横暴配属の結果我がお客様相談窓口コールセンターに配属された新卒採用入社の部下……いや、働きぶりをおれと比べると後輩とだけ言うべきか。4月に入社し連休を経た今や、派遣チームリーダーの那須さんと双璧を成すエースぶりである。
もともと開発を希望していたと聞いている。入社後の研究も功を奏して、製品についての真面目なヘルプ、クレーム対応は「丁寧でためになる」と満足度アンケートの結果も概ね上々だ。
いつまでもおれの面倒を見てほしいなんてことは許されない。
「徳を積む修業」、そう言われた方がまだ納得できそうなことに、崎谷くんは初日からくだを巻き弱音を吐き泣きついたおれに好意を抱いていると言ってくれた。恋愛対象が男性だとは認識していたが、女性とみれば怯え男性機能は不全、満足に独り立ちして仕事の話もできない、性別以前に人としてマイナス評価の今のおれの何処がよかったのか。結果として彼が向けてくれる好意に甘えっぱなしな現状を改善しなければ、と、姉の真弓に連絡を取った結果がこのビデオ通話だった。
「いや、そういうんじゃない、よ多分」
「まあ修業ってことはないんだろうけど……
本人に会社と喧嘩する意思がないんだったら、
アンタが先走ってもしょうがないでしょ」
「そう、かあ……」
不当な理由での配属に対しての訴訟、労働問題を見てくれる弁護士を教えてほしい。
姉にはそう連絡した。姉といえども女性、恐怖感を抑えられず不義理を続けていたのに、おれ自身の必要かとあわてて返事をくれたことには感謝しかない。
「とにかく、さきやくんとちゃんと話してから!
あと私がお世話になってる先生は離婚問題専門だからね」
「えっ、あ……ごめん?」
「別にアンタはイヤミで言ったんじゃないってわかるけどさ。
さきやくんにその気があるなら、
先生の知り合いで誰かいないかって聞いてみるから」
「ありがとう、じゃあそうなったらお願いします」
「アンタが自分のことで、なら今すぐあたるけど?」
親身な心配を声に乗せた姉の質問に、自分はどうしたいのか考えてみる。
状況が変わる、自分が動くことで変える。もうずいぶんと、思い浮かべることもしなかった。
辛い、苦しい、怖い。こうなったら嫌だ、ということばかりで、こうなってほしい、こうなら嬉しいと口に出来るようになったのは、崎谷くんが来てくれてから――みっともなくすがって「一緒にいてほしい」「かわいそうだって思われたい」と伝えてから、かもしれない。
本音を正直に言うなら、できるなら崎谷くんともう少し同僚でいたい。
34歳にもなって、でかい図体した男が言っていいことじゃないな。自嘲しながら「おれはいいよ」と答えるに留めた。
◇◇◇◇◇
「会社を訴える……ですか。
う~ん……それは、あまり考えてないかなあ……」
姉の言う通り、崎谷くんに聞いてからにしてよかった。今回のケースは弁護士を頼むにしても事情の説明、会社の不適切な対応を伝えるのに性的指向の問題が絡む訳で、躊躇いがあるのも当然だった。崎谷くんがしてくれることに比べて、全くおれは配慮が足りない。落ち込みながらせめてもと崎谷くんの手から段ボールを引き受ける。
「大丈夫ですよ、台車までだけだし」
「いや……これくらいはさせてほしい……」
崎谷くんとおれは現在休日出勤中である。
保管期間を過ぎた書類を箱詰めし、溶解業者の引き取りに備える。コールセンターの分だけでもおれ達ふたりで就業時間外に、では平日のうちには終えられず休日出勤を申請したところ、いつの間にか他部署も回って指定の場所に運んでおく作業を乗せられていた。
おれが会社の不興を買い、辞めよがしの扱いを受けているものに崎谷くんを巻き込んでしまっている。せめて何かお礼やお詫び、埋め合わせをしたいと言っても「ふたりきりの休日出勤なんて俺にとってはご褒美ですよ」と笑ってくれる。そんな彼におれがしてあげられるのは、力仕事くらいだ。
「そっか、ごめんね。
この会社と争って、裁判には勝てても
途中は嫌な気分になるばっかりだろうしね……。
安易なこと言っちゃった」
「や、そんな、あの……嬉しかった、ですよ。
俺のことを考えて言ってくれたんだって」
結局またフォローしてもらってしまった。
今も段ボールを台車に積むおれの単純作業のかたわら、事前に送り付けられていた『回収予定部署リスト』をチェックし「次は8階ですね」と言うや否やエレベーターを確保にかかってくれる。おれ一人では土日両方出なければならなかったかもしれない作業が、この調子なら普段の定時より早く終わるような気がする。
崎谷くんは、優しい。相手を慮って寄り添ってくれる人だと思う。それはおれに対してだけじゃなくコールセンターの皆さんに対しても同じで、今日までに厄介なクレーマーに発展しそうなご相談を引き取って解決し、感謝されている様子を何度も見てきた。
線が細い、と言うと失礼だろうか、男性らしい威圧感、圧迫感を感じさせずスマートにさりげなく親切。女性に対しては下心なしでその振る舞いな訳で、昔拾い読みした姉の蔵書の少女漫画の中ですらお目にかかれないような王子様ぶりである。
そんな崎谷くんがおれにだけは好意を隠さず向けてくれる。それすらも恐らく、自分の立ち位置をおれの味方であると表明する意図があってのこと、じゃないかという気がする。「気持ち悪くなったらいつでも言ってください」なんて言わせてしまう今の状態を、おれの反応次第で変えられるのもわかっている。
だけどそれは、誠実とは言えない、結局ひどい行いなんじゃないか?
今まで同性に恋愛感情を向けられた――それを伝えられたことはなかった。無意識に他人事、自分には関係ないと思っていた同性愛を我が事とした時、『アリ』なのか『ナシ』なのか、崎谷くんと同じ意味で「好き」と答えられるのか。勃起不全という状態で、肉体関係を含む付き合いについて答えを出せるものなのか。
このところのおれは、ずっとそんなことを考えている。
◇◇◇◇◇
「崎谷……だよね?
俺、グループ面接で一緒だった斉藤」
「……お疲れ様です。
廃棄書類の回収に回ってるんだけど」
「休日出勤で? なんでそんなことやらされてんの?
お前新人研修にもいなかったしよそ行ったんだと思ってた」
8階でエレベーターのドアが開くやいなやの怒涛の会話。おれの体積が目に入らない、なんてこともないだろうが、自称崎谷くんの同期の斉藤君はすごい勢いで崎谷くんに語りかけ、質問攻めにしている。
「あの、とりあえずエレベーター止めっぱなしだから。
降りていいかな。何階行くの?」
「今はもういい、とりあえずうちのフロア来いよ!
先輩にも紹介してやるし、廃棄書類の回収は業者にやらせりゃいいだろ」
8階にある部署ならマーケティング関連のどれかだろうか。新人研修期間を経てそれなりに花形と目される部署に配属され、不遇の同期を救ってやろうと考えた。随分と余裕のあることで、と少し批判的な見方をしてしまうが、同期や他部署には崎谷くんのアウティング、それを理由にした不当な配属について知らされていないのであればこれは良い機会なのかもしれない。
「……斉藤君、だっけ。
君はなんで休日出勤してるの?」
「俺は先輩が歓迎会してくれてんだよ、実地研修って名目で。
一人くらいまぎれてもわかりゃしないし崎谷も来いよ」
「ふーん。仕事じゃない、って訳だ」
ひやり、と、頸動脈を手で押さえられたような感覚が走る。崎谷くんから聞いたことがないような声音、おれには向けられたことがない口調が飛び出して、思わず唾を飲んだ。
崎谷くんは、優しい、というより――。
「はあ? 仕事じゃないってどういう意味だよ」
「俺は正味申請通り、仕事で出社して社内を回ってる。
君の部署が回収先なら行くけど紹介なんか必要ない。
遊びでやってるんじゃないんだよ」
切り捨てるように言い切り、唇をゆがめる。整った造作に蔑みを浮かべ糾弾する、その初めて見る顔に腹の底へ冷えた塊が落ちる。
おれは、絶対にこんな顔を向けられたくない。8階におれ一人で来ていればこんな顔をさせることはなかったのに。
後悔の一方で、ぞっとするほど――美しい、と思った。
「ンだとコラァ!
研修も要らねえクソみたいな仕事でイキってんじゃねえぞ!」
「っ! うるさい、な。
瞬間湯沸かし器はご自慢の研修じゃ直らなかったんだ?」
声を荒らげる斉藤君に対して煽りを止めない崎谷くんだが、怒鳴り声に跳ねる身体を無理やりに抑えた気配が伝わる。
崎谷くんが怒鳴り声、攻撃的な音声や暴力に大きな反応が出てしまう様子を何度か目にしてきた。これ以上相対させておく意味も必要もない。そっと肩に手を乗せ後ろに回ってもらう。
見上げる視線が瞬間絡み、揺れる目にまた申し訳なさを感じながらせめて少しでも安心してほしいと笑ってみせる。
「アァ? あんた、業者かなんか?
引っ込んでろよ」
「崎谷くんの配属先、お客様相談窓口コールセンター長の
宮代です」
名乗りながら距離を詰める。怖がられたり、自分でも総身に知恵が回りかね、と持て余すガタイがこういう時には役に立つなと改めて思う。
「え……と、すんません」
「斉藤君、でしたか。
回収の予定は聞いてないようですね」
「は、はあ……」
「では、8階は回収希望がなかったものとして飛ばします。
私達は今日、ここには来なかった」
「えっ……?」
「8階で他部署含め廃棄書類が出ているようでしたら、
月曜の朝までに駐車場まで自力で運んでください」
「え、なんで俺らが……」
反射で不満げな表情を浮かべる斉藤君の察しの悪さに軽い苛立ちを覚えながら、用は済んだとばかり背を向ける。何か言いたそうな崎谷くんの背中を強引さを感じさせないよう軽く押して、何も変化がない台車と共に再びエレベーターに乗り込んだ。
◇◇◇◇◇
「ごめんなさい、あんな奴に勝手なこと言わせて、
黙らすことも出来なくて」
地下の駐車場に集めてきた段ボールを下ろし終えたところで、俯いた崎谷くんが沈黙を破った。気に病んでしまったのか、声に力がない。
「謝るならおれのほうだけど……
改めて崎谷くんが来てくれてよかった、って思ったよ」
差別と偏見に基づいた不当な配属。たぶんこの先待遇も改善せず、評価も公平なものには成り得ないだろう。だけど、正しくそうしたものを既に手にした斉藤君があの様子で、それを見た崎谷くんが普段とは真逆の冷え切った表情になるのなら。
おれは、一緒にいられる間は謝るよりお礼を、いてくれて嬉しい、と言い続けよう。
「ありがとう。今日もおかげでだいぶ早く終わったしね」
「っ……! 俺、結局ほとんど運んでないです……。
役に、立ててない……」
俯いていた顔を勢いよく上げたと思えば、心細いような目でそんなことを言う。
有能で、カッコよくて、美しい。次々に新しい一面を見せる崎谷くんを、何故だかたまらなくかわいい、と、滲み出すような衝動で胸がふさがる。
昨日、久々に顔を見た甥と重なるのか。それとも――考えがまとまらないまま、手を延ばしそっと頭を撫でる。さらさらした髪を乱さないよう、些かも乱暴にならないよう。だんだん赤く染まってゆく崎谷くんの顔は、目に入っていながら見えていなかった。
「宮代、さんっ!」
「あ、ああ……嫌だった……?」
「嫌じゃない、喜んじゃうから困るんですよ!
あんまり働いてないのに、ご褒美が過ぎる」
「? 時間が大丈夫なら、良かったら夕飯を食べて帰ろう。
今日は、おれは飲まないからね。
崎谷くんの好きなところで、好きなものを食べて」
「もちろん、ぜひご一緒したいです!
けど、宮代さん飲まないんですか?」
酔っ払った宮代さん、かわいくて好きなんですけどね。
かわいい、なんて言葉はそう言って笑う崎谷くんにこそ使われるべきだ、と改めて思いながら、調子が戻ってきた様子に少し安心して「休日出勤したからって肝臓はちゃんと休ませなきゃね」とあまり冴えない答え方をした。